の冠を被《き》玉《たま》うや、不幸に堪えずして斯様《かよう》の事を仕給うとならば、寂心が堂塔造らん料にとて勧進し集めたる物どもを御房にまいらすべし、一人を菩薩《ぼさつ》に勧むれば、堂寺造るに勝りたる功徳である、と云って、弟子共をつかわして、材木とらんとて勧進し集めたる物共を皆運び寄せて、此の陰陽師の真似をした僧に与えやり、さて自分は為すべしと思えることも得為さず、身の影ひとつ、京へ上り帰ったということである。紙の冠被った僧は其後|何様《どう》なったか知らぬが、これでは寂心という人は事業などは出来ぬ人である。道理で寂心が建立したという堂寺などの有ることは聞かぬ。後の高尾の文覚《もんがく》だの、黄蘗《おうばく》の鉄眼《てつげん》だのは、仕事師であるが、寂心は寂心であった。これでも別に悪いことは無い。
寂心が三河国を経行したというのは、晩秋過参州薬王寺有感《ばんしうさんしうやくわうじをよぎりてかんあり》という短文が残っているので此を証するのである。勿論入道してから三河へ行ったのか、猶《なお》在俗の時行ったのかは、其文に年月の記が無いから不詳であるが、近江掾《おうみのじょう》になったことは有ったけれど、大江匡房の慶保胤伝にも、緋袍之後《ひほうののち》、不改其官《そのかんをあらためず》と有り、京官《きょうがん》であったから、三河へ下ったのは、僧になってからの事だったろうと思われる。文に、余は是れ羈旅《きりょ》の卒、牛馬の走《そう》、初尋寺次逢僧《はじめてらをたづねついでそうにあひ》、庭前俳徊《ていぜんにはいくわいし》、灯下談話《とうかにだんわす》、とあるので、羈旅牛馬の二句は在俗の時のことのようにも想われるが、庭前灯下の二句は何様《どう》も行脚修業中のこととも想われる。薬王寺は碧海郡《あおみぐん》の古刹《こさつ》で、行基《ぎょうぎ》菩薩の建立するところである。何で寂心が三河に行ったか、堂寺建立の勧化《かんげ》の為だったか何様か、それは一切考え得るところが無いが、抖※[#「手へん+數」、第3水準1−85−5]《とそう》行脚の因《ちな》みに次第次第三河の方へまで行ったとしても差支はあるまい。特《こと》に寂心が僧となっての二三年は恰《あたか》も大江|定基《さだもと》が三河守になっていた時である。定基は大江|斉光《なりみつ》の子で、斉光は参議|左大弁正三位《さたいべんしょうさんみ》までに至った人で、贈従二位大江|維時《これとき》の子であった。大江の家は大江|音人《おとんど》以来、儒道文学の大宗《たいそう》として、音人の子玉淵、千里、春潭《はるふち》、千古《ちふる》、皆詩歌を善くし、千里は和歌をも善くし、小倉百人一首で人の知っているものである。玉淵の子朝綱、千古、千古の子の維時は皆文章博士であり、維時の子の重光の子の匡衡《まさひら》も文章博士、維時の子の斉光は東宮学士、斉光の子の為基も文章博士であり、大江家の系図を覧《み》れば、文章博士や大学頭《だいがくのかみ》の鈴なりで、定基は為基の弟、匡衡とは従兄弟同士である。で、定基は父祖の功により、早く蔵人《くろうど》に擢《ぬきん》でられ、尋《つい》で二十何歳かで三河守に任ぜられたが、然様《そう》いう家柄の中に出来た人なので、もとより文学に通じ詞章を善くし、又是れ一箇の英霊底の丈夫であった。大江の家に対して、菅原古人以来、特《こと》に古人の曾孫《そうそん》に道真公を出したので大《おおい》に家声を挙げた菅原家もまた当時に輝いていたが、寂心の師事した文時は実に古人六世の孫であり、匡衡の如きも亦文時に文章詩賦の点鼠《てんざん》を乞うたというから、定基も勿論同じ文雅の道の流れのものとして、自然保胤即ち寂心とは知合で、無論年輩の関係から保胤を先輩として交っていたろうことは明らかである。
三河守定基は、まだ三十歳にもならないのに、三河守に任ぜられたことは、其父祖の功労によったことは勿論であるが、長男でもあらばこそ、次男の身を以て其処まで出世していたことは、一は其人物が英発して居って、そして学問詞才にも長《た》け、向上心の強い、勇気のある、しかも二王の筆致を得ていたと後年になって支那の人にさえ称讃されたほどであるから、内に自から収め養うところの工夫にも切なる立派な人物、所謂《いわゆる》捨てて置いても挺然《ていぜん》として群を抜くの器量が有ったからであったろう。
此の定基が三十歳、人生はこれからという三十歳になるやならずに、浮世を思いきって、簪纓《しんえい》を抛《なげう》ち棄て、耀《かがや》ける家柄をも離れ、木の端、竹の片《きれ》のような青道心《あおどうしん》になって、寂心の許《もと》に走り、其弟子となったのは、これも因縁|成熟《じょうじゅく》して其処に至ったのだと云えば、それまでであるが、保胤が長年の間、世路に彷
前へ
次へ
全30ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング