磨《はりま》、東は三河にまで行ったことは、証《しょう》があって分明するから、猶《なお》遠く西へも東へも行ったかと想われる。其の播磨へ行った時の事である。これは堂塔|伽藍《がらん》を建つることは、法《のり》の為、仏の為の最善根であるから、寂心も例を追うて、其のため播磨の国に行《ゆ》いて材木勧進をした折と見える。何処《いずこ》の町とも分らぬが、或処で寂心が偶然《ふと》見やると、一人の僧形の者が紙の冠を被《き》て陰陽師《おんようじ》の風体を学び、物々しげに祓《はらえ》するのが眼に入った。もとより陰陽道を以て立っている賀茂の家に生れた寂心であるから、自分は其道に依らないで儒道文辞の人となり、又其の儒を棄て仏《ぶつ》に入って今の身になってはいるものの、陰陽道の如何なるものかの大凡《おおよそ》は知っているのである。陰陽道は歴緯に法《のっと》り神鬼を駆ると称して、世俗の為に吉を致し凶を禳《はら》うものである。儒より云えば巫覡《ふげき》の道、仏より云えば旃陀羅《せんだら》の術である。それが今、かりにも法体《ほったい》して菩提《ぼだい》の大道《たいどう》に入り、人天の導師ともならんと心掛けたと見ゆる者が、紙の冠などして、えせわざするを見ては、堪え得らるればこそ、其時は寂心馬に打乗り威儀かいつくろいて路を打たせていたが、忽《たちま》ち滾《こぼ》るように馬から下《くだ》り、あわてて走り寄って、なにわざし給う御房ぞ、と詰《なじ》り咎《とが》めた。御房とは僧に対する称呼である。御房ぞと咎めたのは流石に寂心で、実に宜かった。しかし紙の冠して其様《そん》な事をするほどの者であったから、却《かえ》ってけげんな顔をしたことであろう。祓《はらえ》を仕候也、と答えた。何しに紙の冠をばしたるぞ、と問えば、祓戸の神たちは法師をば忌みたまえば、祓をするほど少時《しばし》は仕て侍《はべ》るという。寂心今は堪えかねて、声をあげて大に泣きて、陰陽師につかみかかれば、陰陽師は心得かねて只呆れに呆れ、祓をしさして、これは如何に、と云えば、頼みて祓をさせたる主人《あるじ》も驚き呆れた。寂心は猶も独り感じ泣きて、彼《か》の紙の冠を攫《つか》み取りて、引破りて地に抛《なげう》ち、漣々《れんれん》たる涙を止《とど》めもあえず、何たる御房ぞや、尊くも仏弟子となりたまいながら、祓戸の神の忌みたまうとて如来の忌みたまうことを忘れて、世俗に反り、冠などして、無間地獄《むげんじごく》に陥る業を造りたまうぞ、誠に悲しき違乱のことなり、強いて然《さ》ることせんとならば、ただここにある寂心を殺したまえ、と云いて泣くことおびただしいので、陰陽師は何としようも無く当惑したが、飽《あく》まで俗物だから、俗にくだけて打明け話に出た。仰せは一々御もっともでござる、しかし浮世の過しがたさに、是《かく》の如くに仕る、然らずば何わざをしてかは妻子をばやしない、吾《わ》が生命《いのち》をも続《つな》ぐことのなりましょうや、道業《どうごう》猶《なお》つたなければ上人とも仰がれず、法師の形には候えど俗人の如くなれば、後世《ごせ》のことはいかがと哀しくはあれど、差当りての世のならいに、かくは仕る、と語った。何時の世にも斯様《こう》いう俗物は多いもので、そして又|然様《そう》いう俗物の言うところは、俗世界には如何にも正しい情理であると首肯されるものである。しかし折角殊勝の世界に眼を着け、一旦それに対《むか》って突進しようと心ざした者共が、此の一関《いっかん》に塞止《せきと》められて已《や》むを得ずに、躊躇《ちゅうちょ》し、俳徊《はいかい》し、遂に後退するに至るものが、何程《どれほど》多いことであろうか。額を破り※[#「匈/月」、930−上−5]《むね》を傷つけるのを憚《はば》からずに敢て突進するの勇気を欠くものは、皆此の関所前で歩を横にしてぶらぶらして終《しま》うのである。芸術の世界でも、宗教の世界でも、学問の世界でも、人生戦闘の世界でも、百人が九十九人、千人が九百九十九人、皆此処で後《あと》へ退《さが》って終うのであるから、多数の人の取るところの道が正しい当然の道であるとするならば、疑も無く此の紙の冠を被《かぶ》った世渡り人《びと》の所為は正しいのである、情理至当のことなのである。寂心は飾り気の無い此の御房の打明話には、ハタと行詰らされて、優しい自分の性質から、将又《はたまた》智略を以て事に処することを卑しみ、覇気を消尽するのを以て可なりとしているような日頃の修行の心掛から、却《かえ》ってタジタジとなって押返されたことだったろう。ヤ、それは、と一句あとへ退った言葉を出さぬ訳にはゆかなかった。が、しかし信仰は信仰であった。さもあればあれ、と一[#(ト)]休め息を休めて、いかで三世如来の御姿を学ぶ御首《みぐし》の上に、勿体無くも俗
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