て闘うに至るのが、世間|有勝《ありがち》の事である。即ち出すの引くのという騒動になるのである。ここになると小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりゃこそ、時至れりとばかり筆を揮《ふる》って、有ること無いこと、見て来たように出たらめを描くのである。と云って置いて、此以下少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思っていただきたい。但し出たらめを描くようにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。
定基の妻の名は何と云ったか、何氏《なにうじ》の女《むすめ》であったか、それは皆分らない。此頃の女は本名が無かった訳ではあるまいが、紫式部だって、本名はおむらだったかお里だったか、誰も知らない、清少納言だって、本名はおきよだったかおせいだったか、誰も知らない、知ってる方は手をあげなさいと云われたって、大抵の人は懐手で御免を蒙るでしょう。まさか赤[#(ン)]坊の時から、紫式部や、おっぱい御上り、清少納言や、おしっこをなさい、ワンワン来い来い、などと云われたので無かろうことは分っているが、仙人の女王、西王母の、姓は侯《こう》、名は婉※[#「女+今」、932−中−26]《えんせん》、などと見えすいた好い加減なことを答えるよりは面倒だから、其儘《そのまま》にして置こう。美人だったか、醜婦だったかも不明だが、先ず十人並の人だったとして置いて差支えは無かろうが、其の気質だけは温和で無くて、強《きつ》い方だったろうことは、連添うた者と若い身そらで争い別れをしたことでも想いやられる。此女が定基に対して求めたことは無論|恋敵《こいがたき》の力寿を遠ざけることであったろうが、定基は力寿に首ったけだったから、それを承知すべくは無いし、又|直截《ちょくせつ》な性質の人だったから、吾《わ》が妻に対することでは有り、にやくやに云《いい》紛《まぎ》らして、※[#「施」の「方」に代えて「てへん」、第3水準1−84−74]泥《たでい》滞水の挨拶を以て其場を済ませて置くというようなことも仕無かったろうから、次第次第に夫婦の間は険悪になっていったであろう。ところが、飢えたる者は人の美饌《びせん》を享《う》くるを見ては愈々飢の苦《くるしみ》を感ずる道理がある。飽《あ》ける者は人の饑餓《きが》に臨めるを見ては、余計に之を哀れむの情を催す道理がある。ここに定基に取っては従兄弟同士である大江匡衡があった。匡衡は大江維時の嫡孫であって、家も其格が好い。定基は匡衡の父重光の弟の斉光の子で、しかも二男坊である。匡衡定基はおよそ同じほどの年頃であるが、才学は優劣無いにしても匡衡は既に文名を馳《は》せて大《おおい》に称せられている。それやこれやの関係で、自然定基は匡衡に雁行する位置に立って居る。そこへ持って来て匡衡は、定基が妻を迎えたと彼是《かれこれ》同じ頃に矢張り妻を迎えたのである。いずれもまだ何年もたたぬ前のことである。匡衡は七歳にして書を読み、九歳にして詩を賦したと云われた英才で、祖父の維時の学を受け、長じて博学、渉《わた》らざるところ無しと世に称せられていた。其文章の英気があって、当時に水際だっていたことは、保胤の評語に、鋭卒数百、堅甲を※[#「環」の「王」に代えて「てへん」、第3水準1−85−3]《ぬ》き駿馬《しゅんめ》に鞭《むち》うって、粟津の浜を過ぐるが如し、とあったほどで、前にも既に其事は述べた。しかも和歌までも堪能《かんのう》で、男ぶりは何様《どう》だったか、ひょろりとして丈高く、さし肩であったと云われるから、ポッチャリとした御公卿《おくげ》さん達《だち》の好い男子《おとこ》では無かったろうと思われる。さし肩というのは、菩薩肩《ぼさつがた》というのとは反対で、菩薩肩は菩薩像のような優しい肩つき、今でいう撫肩であり、さし肩というのは今いう怒り肩で漢語の所謂《いわゆる》鳶肩《えんけん》である。鳶肩|豺目《さいもく》結喉《けっこう》露唇《ろしん》なんというのは、物の出来る人や気嵩《きがさ》の人に、得てある相だが、余り人好きのする方では無い。だから男振りは好い方であったとも思われないが、此の匡衡の迎えた妻は、女歌人《じょかじん》の中《うち》でも指折りの赤染《あかぞめ》右衛門《えもん》で、其頃丁度匡衡もまだ三十前、赤染右衛門も二十幾歳、子の挙周《たかちか》は生れていたか、未だ生れていなかったか知らないが、若盛りの夫婦で、女貌郎才、相当って居り、琴瑟《きんしつ》こまやかに相和して人も羨《うらや》む中であったろうことは思いやられるのである。さて定基夫婦の間の燻《ふすぶ》りかえり、ひぞり合い、煙《けむ》を出し火を出し合うようになっている傍に、従兄弟同士の匡衡夫婦の間は、詩思歌情、ハハハ、オホホで朝夕《ちょうせき》を睦《むつ》び合っているとすれば、定基の
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