語りわけることも、敢てするに当るまい。が、これは源信寂心にはじまったことではなく、経に在っては月光童子の物語がこれと同じ事で、童子は水観を初めて成し得た時に、無心の小児に瓦礫《がれき》を水中に投げ入れられて心痛を覚え、それを取出して貰って安穏を回復したというのである。伝に在っては、唐の法進が竹林中で水観を修めた時に、これは家人が縄床上に清水《せいすい》があるのを見て、二ツの小白石を其中に置いたので、それから背痛を覚え、後また其を除いて貰って事無きを得たという談がある。日本でも大安寺の勝業《しょうごう》上人が水観を成《じょう》じた時同じく石を投げ入れられて、これは※[#「匈/月」、927−中−15]《むね》が痛んだという談があって、何も希有《けう》な談でも何でもない。清水だろうが、洪水だろうが、瓦礫だろうが、小白石だろが、何だって構うことは無い、慧心寂心の間に斯様《かよう》な話の事実が有ったろうが、無かったろうがそんなことは実は何様《どう》でもよい、ただ斯様《こう》いう談が伝わっているというだけである。いや実はそれさえ覚束《おぼつか》ないのである。ただ寂心の弟子の寂照が後に源信の弟子同様の態度を取って支那に渡るに及んでいるほどであるから、寂心源信の間には、日ごろ経律《きょうりつ》の論、証解《しょうげ》の談が互に交されていたろうことは想いやられる。勿論文辞に於ては寂心に一日の長があり、法悟に於ては源信に数歩の先んずるものが有ったろうが、源信もまた一乗要訣、往生要集等の著述少からず、寂心と同じように筆硯《ひっけん》の業には心を寄せた人であった。
寂心は弥陀《みだ》の慈願によって往生浄土を心にかけたのみの、まことに素直な仏徒ではあったが、此時はまだ後の源空以後の念仏宗のような教義が世に行われていたのでなく、したがって捨閉擱抛《しゃへいかくほう》と、他の事は何も彼も擲《なげう》ち捨てて南無阿弥陀仏一点張り、唱名三昧に二六時中を過したというのではなく、後世からは余業雑業《よごうざつごう》と斥《しりぞ》けて終《しま》うようなことにも、正道正業《しょうどうしょうごう》と思惟《しゆい》さるる事には恭敬心《くぎょうしん》を以て如何にも素直にこれを学び之を行《ぎょう》じたのであった。で、横川に増賀の聖が摩訶止観《まかしかん》を説くに当って、寂心は就いて之を承《う》けんとした。
増賀は参議|橘恒平《たちばなのつねひら》の子で、四歳の時につきものがしたように、叡山に上《のぼ》って学問をしよう、と云ったとか伝えられ、十歳から山へ上せられて、慈慧に就いて仏道を学んだ。聡明《そうめい》驚くべく、学は顕密を綜《す》べ、尤《もっと》も止観に邃《ふか》かったと云われている。真の学僧|気質《かたぎ》で、俗気が微塵《みじん》ほども無く、深く名利《みょうり》を悪《にく》んで、断岸絶壁の如くに身の取り置きをした。元亨釈書《げんこうしゃしょ》に、安和の上皇、勅して供奉《ぐぶ》と為す、佯狂垢汗《ようきょうこうかん》して逃れ去る、と記しているが、憚《はばか》りも無く馬鹿げた事をして、他に厭《いと》い忌まれても、自分の心に済むように自分は生活するのを可なりとした人であった。自分の師の慈慧が僧正に任ぜられたので、宮中に参って御礼を申上げるに際し、一山の僧侶《そうりょ》、翼従甚だ盛んに、それこそ威儀を厳荘にし、飾り立てて錬り行った。一体本来を云えば樹下石上にあるべき僧侶が、御尊崇下さる故とは云え、世俗の者共|月卿雲客《げっけいうんかく》の任官謝恩の如くに、喜びくつがえりて、綺羅《きら》をかざりて宮廷に拝趨《はいすう》するなどということのあるべきでは無いから、増賀には俗僧どもの所為が尽《ことごと》く気に入らなかったのであろう。衛府の大官が立派な長剣を帯びたように、乾鮭《からさけ》の大きな奴を太刀《たち》の如くに腰に佩《お》び、裸同様のあさましい姿で、痩《や》せた牝牛《めうし》の上に乗《のり》跨《また》がり、えらそうな顔をして先駆の列に立って、都大路の諸人環視の中を堂々と打たせたから、群衆は呆れ、衆徒は驚いて、こは何事と増賀を引《ひき》退《さが》らせようとしたが、増賀は声を※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》しくして、僧正の御車の前駈《さきがけ》、我をさしおいて誰が勤むべき、と怒鳴った。盛儀も何様《どう》も散々な打壊《ぶちこわ》しであった。こういう人だったから、或立派な家の法会があって、請われて其処へ趣く途中、是は名聞《みょうもん》のための法会である、名聞のためにすることは魔縁である、と思いついたので、遂に願主と※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りあい的|諍議《そうぎ》を仕出して終《しま》って、折角の法会を滅茶滅茶にして帰った。随分厄介といえば厄介な
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