ゅしょう》の撰者の源|順《したがう》は死んだ。順も博学能文の人であったが、後に大江匡房が近世の才人を論じて、橘《たちばな》ノ在列《ありつら》は源ノ順に及ばず、順は以言と慶滋保胤とに及ばず、と断じた。保胤と順とは別に関渉は無かったが、兎死して狐悲む道理で、前輩知友の段々と凋落《ちょうらく》して行くのは、さらぬだに心やさしい保胤には向仏の念を添えもしたろう。世の中は漸《ようや》く押詰って、人民安からず、去年は諸国に盗賊が起り、今年は洛中《らくちゅう》にて猥《みだ》りに兵器を携うるものを捕うるの令が出さるるに至った。これと云って保胤の身近に何事が有ったわけでは無いが、かねてからの道心|愈々《いよいよ》熟したからであろう。保胤は遂に寛和二年を以て、自分が折角こしらえた繭を咬《かみ》破《やぶ》って出て、落髪出家の身となって終《しま》った。戒師は誰であったか、何《ど》の書にも見えぬが、保胤ほどの善信の人に取っては、道の傍《かたえ》の杉の樹でも、田の畦《あぜ》の立杭《たちぐい》でも、戒師たるに足るであろうから、誰でも宜かったのである。多武峰《とうのみね》の増賀上人、横川《よかわ》の源信《げんしん》僧都《そうず》、皆いずれも当時の高僧で、しかも保胤には有縁《うえん》の人であったし、其他にも然るべき人で得度させて呉れる者は沢山有ったろうが、まさか野菜売りの老翁が小娘を失った悲みに自剃《じぞ》りで坊主になったというような次第でもあるまいに、更に其噂の伝わらぬのは不思議である。匡房が続往生伝には、子息の冠笄《かんけい》纔《わずか》に畢《おわ》るに及んで、遂に以て入道す、とあるばかりだ。それによれば、何等の機縁が有ったのでも無く、我児が一人で世に立って行かれるようになったので、予《かね》ての心願に任せて至極安穏に、時至って瓜が蔕《へた》から離れるが如く俗世界からコロリと滑り出して後生願い一方の人となったのであろう。保胤の妻及び子は何様《どん》な人であったか、更に分らぬ。子は有ったに相違ないが、傍系の故だか、加茂氏系図にも見当らぬ。思うに妻も子も尋常無異の人で、善人ではあったろうが、所謂《いわゆる》草芥《そうかい》とともに朽ちたものと見える。
保胤は入道して寂心となった。世間では内記の聖《ひじり》と呼んだ。在俗の間すら礼仏誦経《らいぶつじゅきょう》に身心を打込んだのであるから、寂心となってからは、愈々精神を抖※[#「てへん+數」、第3水準1−85−5]《とそう》して、問法|作善《さぜん》に油断も無かった。伝には、諸国を経歴して広く仏事を作《な》した、とあるが、別に行脚の苦修談《くじゅだん》などは伝えられていない。ただ出家して後わずかに三年目には、自分に身を投げかけて来た者を済度して寂照という名を与えた。此の寂照は後に源信の為に宋に使《つかい》したもので、寂心と源信とはもとより菩提《ぼだい》の友であった。源信の方が寂心よりは少し年が劣って居たかも知らぬが、何にせよ幼きより叡山《えいざん》の慈慧に就いて励精刻苦して学び、顕密|双修《そうじゅ》、行解《ぎょうげ》並列の恐ろしい傑物であった。此の源信と寂心との間の一寸面白い談《はなし》は、今其の出処を確記せぬが、閑居之友であったか何だったか、何でも可なり古いもので見たと思うのである。記憶の間違だったら抹殺して貰わねばならぬが。
或時寂心は横川の慧心院《えしんいん》を訪《と》うた。院は寂然《じゃくねん》として人も無いようであった。他行であるか、禅定であるか、観法であるか、何かは知らぬが、互に日頃から、見ては宜からぬ、見られては宜からぬ如き行儀を互に有《も》たぬ同士であるから、遠慮無く寂心は安詳《あんじょう》にあちこちを見廻った。源信は何処にも居なかった。やがて、ここぞと思う室《へや》の戸を寂心は引開けた。すると是《こ》は如何に、眼の前は茫々漠々《ぼうぼうばくばく》として何一ツ見えず、イヤ何一ツ見えないのでは無い、唯是れ漫々洋々として、大河《だいが》の如く大湖の如く大海《だいかい》の如く、※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]々《いい》たり瀲々《れんれん》たり、汪々《おうおう》たり滔々《とうとう》たり、洶《きょう》たり沸《ふつ》たり、煙波|糢糊《もこ》、水光天に接するばかり、何も無くして水ばかりであった。寂心は後《あと》へ一[#(ト)]足引いたが、恰《あたか》もそこに在った木枕を取って中へ打込み、さらりと戸をしめて院外へ出て帰ってしまった。源信はそれから身痛を覚えた。寂心が来て卒爾《そつじ》の戯れをしたことが分って、源信はふたたび水を現じて、寂心に其中へ投げ入れたものを除去させた。源信はもとの如くになった。
此の談は今の人には、ただ是れ無茶苦茶の譚《だん》と聞えるまでであろう。又これを理解のゆくように
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