にすると云い、富める者は産業を傾け、貧者は家資を失う、と既に其弊の見《あら》わるるを云って居る。物価は騰貴をつづけて、国用漸く足らず、官を売って財に換うるのことまで生ずるに至ったことは、同封事第二条に見え、若《も》し国用を憂うならば則《すなわ》ち毎事必ず倹約を行え、と文時をして切言せしめている。爾後《じご》二十余年、世態|愈々《いよいよ》変じて、華奢増長していたろうから、保胤のようなおとなしい者の眼からは、倹約安民の上を慕わしく思ったのであろう。次に、唐の白楽天を異代の師と為す、詩句に長じて仏法に帰するを以てなり、と記している。白氏を詩宗《しそう》としたのは保胤ばかりでなく、当時の人皆然りであった。ただ保胤の白氏を尊ぶ所以《ゆえん》は、詩句に長じたからのみではなく、白氏の仏法に帰せるに取るあるのである。ところが白氏は台所婆なぞを定規にして詩を裁《た》った人なので、気の毒に其の益をも得たろうが其弊をも受け、又白氏は唐人の習い、弥勒菩薩《みろくぼさつ》の徒であったろうに、保胤は弥陀如来《みだにょらい》の徒であったのはおかしい。次に、晋朝の七賢を異代の友と為す、身は朝に在って志は隠に在るを以てなり、と記している。竹林の七賢は、いずれ洒落《しゃれ》た者どもには相違無いが、懐中に算籌《さんちゅう》を入れていたような食えない男も居て、案外保胤の方が善いお父さんだったか知れない。是《かく》の如く叙し来ったとて、文海の蜃楼《しんろう》、もとより虚実を問うべきではないが、保胤は日々|斯様《こう》いう人々と遇っているというのである。そして、近代人世の事、一《いつ》も恋《した》うべき無し、人の師たるものは貴を先にし富を先にして、文を以て次《じ》せず、師無きに如《し》かず、人の友たる者は勢を以てし利を以てし、淡を以て交らず、友無きに如かず、予門をふさぎ戸を閉じ、独り吟じ独り詠ず、と自ら足りて居る。応和以来世人好んで豊屋峻宇《ほうおくしゅんう》を起し、殆ど山節|藻※[#「木+兌」、第3水準1−85−72]《そうせつ》に至る、其費且つ巨千万、其住|纔《わずか》に二三年、古人の造る者居らずと云える、誠なるかな斯言《このげん》、と嘲《あざけ》り、自分の暮歯に及んで小宅を起せるを、老蚕の繭《まゆ》を成すが如しと笑い、其の住むこと幾時ぞや、と自ら笑って居る。老蚕の繭を成せる如し、とは流石に好かった。此記を為せるは、天元五年の冬、保胤四十八九歳ともおもわれる。
保胤が日本往生極楽記を著わしたのは、此の六条の池亭に在った時であろうと思われる。今存している同書は朝散大夫著作郎慶保胤撰《ちょうさんたいふちょさくろうきょうほういんせん》と署名してある、それに拠れば保胤が未だ官を辞せぬ時の撰にかかると考えられるからである。其書に叙して、保胤みずから、予|少《わか》きより日に弥陀仏を念じ、行年四十以後、其志|弥々《いよいよ》劇《はげ》しく、口に名号を唱え、心に相好《そうごう》を観じ、行住|坐臥《ざが》、暫くも忘れず、造次|顛沛《てんぱい》も必ず是に於てす、夫《か》の堂舎|塔廟《とうびょう》、弥陀の像有り浄土の図ある者は、礼敬《らいきょう》せざるなく、道俗男女、極楽に志す有り、往生を願う有る者は、結縁《けちえん》せざる莫《な》し、と云って居るから、四十以後、道心日に募りて已《や》み難く、しかも未だ官を辞さぬ頃、自他の信念勧進のために、往生事実の良験《りょうげん》を録して、本朝四十余人の伝をものしたのである。清閑の池亭の中《うち》、仏前|唱名《しょうみょう》の間々《あいあい》に、筆を執って仏|菩薩《ぼさつ》の引接《いんじょう》を承《う》けた善男善女の往迹《おうじゃく》を物しずかに記した保胤の旦暮《あけくれ》は、如何に塵界《じんかい》を超脱した清浄三昧《しょうじょうさんまい》のものであったろうか。此往生極楽記は其序に見える通り、唐の弘法寺《ぐほうじ》の僧の釈迦才《しゃくかさい》の浄土論中に、安楽往生者二十人を記したのに傚《なら》ったものであるが、保胤往生の後、大江匡房《おおえのまさふさ》は又保胤の往生伝の先蹤《せんしょう》を追うて、続本朝往生伝を撰《せん》している。そして其続伝の中には保胤も採録されているから、法縁|微妙《みみょう》、玉環の相連なるが如しである。匡房の続往生伝の叙に、寛和年中、著作郎慶保胤、往生伝を作りて世に伝う、とあるに拠れば、保胤が往生伝を撰したのは、正しく保胤が脱白|被緇《ひし》の前年、五十一二歳頃、彼の六条の池亭に在った時ででもあったろう。
保胤が池亭を造った時は、自ら記して、老蚕の繭《まゆ》を成せるがごとしと云ったが、老蚕は永く繭中《けんちゅう》に在り得無かった。天元五年の冬、其家は成り、其記は作られたが、其翌年の永観元年には倭名類聚抄《わみょうるいじ
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