て、しおらしく其前に坐ったかと思うと、おかしいような気がする。寂心は長保四年の十月に眠るが如く此世を去ったが、其の四十九日に当って、道長が布施を為し、其|諷誦文《ふうじゅもん》を大江匡衡が作っている。そして其請状は寂照が記している。それは今に存しているが、匡衡の文の日付は長保四年十二月九日とある。然るに続往生伝には、寂心の往生は長徳三年とあって、五年ほどの差がある。続往生伝は匡衡の孫の成衡《しげひら》の子の匡房の撰《せん》だから、これも信ずべきであるが、何様して然様《そう》いう相違が生じたのであろう。世外の老人の死だから、五年やそこらは何れが真実でも差支は無いが、想うに書写|輾転《てんてん》の間に生じた何れかの誤りなるのみであろう。長徳の方が正しいかも知れぬ。長保四年の冬には寂照が日本に居無かったかと思われるから。
長徳でも長保でもよい、寂心は晏然《あんぜん》として死んだのである。勿論俗界の仕事師ではなかったから、大した事跡は遺さなかった。文筆の業も、在官の時、永観元年の改元の詔《みことのり》、同二年、封事《ふうじ》を上《たてまつ》らしめらるるの詔を草したのを首《はじめ》として、二十篇ばかりの文、往生極楽記などを遺したに過ぎないで終ったが、当時の人の心界に対して投げた此人の影は、定基を点化《てんけ》した一事に照しても明らかであった。そこで此人の往生に就ても面白い云伝えが残っている。普通の信心深い仏徒や居士の終りには、聖衆来迎《しょうじゅらいごう》、紫雲音楽めでたく大往生というのが常である。それで西方|兜率天《とそつてん》か何処か知らぬが遠いところへ移転したきりというのが定《き》まりであるが、寂心の事を記したのは、それで終っていない。東山如意輪寺で型の如くに逝《ゆ》いた後、或人が夢みた。寂心上人は衆生を利益せんがために、浄土より帰りて、更に娑婆《しゃば》に在《いま》すということであった。かかることが歴然と寂心上人伝に記されているのである。わざわざ誰とも知れぬ人の何時の夢とも知れぬ夢などを死後の消息として書いてあるのは希有《けう》なことである。しかし其夢が、夢中に寂心上人が現われて自分で然様語ったのを聞いたのだか、其人が然様した上人の生れかわり、又は仙人の影法師かのようなものに遇ったというのだか、何だか分らずに朦朧《もうろう》と書いてある。一体これは何様いうことなのであろうか。何故然様いう夢を見たのであろうか。むかし呂洞賓《りょどうひん》という仙人は、仙道成就しても天に昇ったきりにならずに、何時迄も此世に化現遊戯《けげんゆげ》して塵界《じんかい》の男女《なんにょ》貴賎を点化したということで、唐から宋へかけて処処方方に詩歌だの事跡だのを遺して居り、宋の人の間には其信仰が普遍で、既に蘇東坡《そとうば》の文にさえ用いられているし、今でも法を修《しゅ》して喚べば出て来ると思われている。我邦でも弘法大師は今に存在して、遍路の行者とまでも云えない世の常の大師まいりをする位の者の間にも時によりて現われて、抜苦与楽転迷開悟の教を垂れて下さるという俗間信仰がある。いや其様《そん》なことを云うまでもなく、釈迦《しゃか》にさえも娑婆|往来《おうらい》八千返《はっせんぺん》の談《はなし》があって、梵網経《ぼんもうきょう》だか何だったかに明示されている。本来を云えば弥陀《みだ》なり弥勒《みろく》なり釈迦《しゃか》なりを頼んで、何かムニャムニャを唱えて、そして自分一人極楽世界へ転居して涼しい顔をしようと云うのは、随分虫のいいことで、世の諺《ことわざ》に謂《い》う「雪隠《せっちん》で饅頭《まんじゅう》を食う」料簡《りょうけん》、汚い、けちなことである。証得妙果の境界《きょうがい》に入り得たら、今度は自分が其の善いものを有縁無縁の他人にも施し与えようとすべきが自然の事である。そこで菩薩《ぼさつ》となり仏となったものは化他《けた》の業にいそしむことになるのが自然の法で、それが即ち菩薩なり仏なりなのである。弥陀の四十八願、観音の三十三身、何様な苦労をしても、何様なものに身を為しても、一切世間を善くしたい、救いたい、化度《けど》したいというのが、即ち仏菩薩なので、何も蓮花《れんげ》の上にゆったり坐って百味の飲食《おんじき》に啖《くら》い飽《あ》こうとしているのが仏菩薩でも何でも無い。寂心は若い時から慈悲心牛馬にまで及んだ人である。それが出家入道して、所証日に深く、浄土は隣家を看るよりも近々と合点せられるに至ったのである。終《つい》には此世彼世を一[#(ト)]跨《また》ぎの境界に至ったのである。そこで昔はあれほど想い焦れた浄土も吾《わ》が手のものとなったにつけて、浄土へ行きっ切りとなろう気はなく、自然と娑婆《しゃば》へ往来しても化他の業を執ろうという心が湧上ったに疑無
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