く、言語《げんぎょ》の端にもおのずから其意が漏れて、それから或人の夢や世間の噂も出たのであろう。その保胤の時から慈悲牛馬に及んだ寂心が、自己の証得|愈々《いよいよ》深きに至って、何で世人の衆苦充満せる此界《しかい》に喘《あえ》ぎ悩んでいるのを傍眼《よそめ》にのみ見過し得ようや。まして保胤であった頃にも、其明眼からは既に認め得て其文章に漏らしている如く、世間は漸《ようや》く苦しい世間になって、一面には文化の華の咲乱れ、奢侈《しゃし》の風の蒸暑くなってくる、他の一面には人民の生活は行詰まり、永祚《えいそ》の暴風、正暦《しょうりゃく》の疫病、諸国の盗賊の起る如き、優しい寂心の心からは如何に哀しむべき世間に見えたことであろう。寂心は世を哀み、世は寂心の如き人を懐かしんでいた。寂心娑婆帰来の談《はなし》の伝わった所以《ゆえん》でもあろう。勿論寂心は辟支仏《へきしぶつ》では無かったのである。
 寂心の弟子であったが、恵心に就いても学んだであろう寂照は、其故に恵心の弟子とも伝えられている。恵心は台宗問目二十七条を撰《せん》して、宋の南湖《なんこ》の知礼師《ちらいし》に就いて之を質《ただ》そうとした。知礼は当時|学解《がくげ》深厚《じんこう》を以て称されたものであったろう。此事は今詳しく語り得ぬが、恵心ほどの人が、何も事新しく物を問わないでも宜《よ》かりそうに思われる。然し恵心は如何にも謙虚の徳と自信の操《そう》との相対的にあった人で、加之《しかも》毫毛《ごうまつ》の末までも物事を曖昧《あいまい》にして置くことの嫌いなような性格だったと概解しても差支無いかと考えられる。伝説には此人一乗要訣を撰した時には、馬鳴《めみょう》菩薩《ぼさつ》竜樹《りゅうじゅ》菩薩が現われて摩頂|讃歎《さんたん》し、伝教大師は合掌して、我山の教法は今汝に属すと告げられたと夢みたということである。夢とはいえ、馬鳴竜樹にも会ったのである。又観世音菩薩、毘沙門天王《びしゃもんてんおう》にも夢に会ったとある。夢に会ったということと、現《うつつ》に会ったということとは、然程《さほど》違うことでは無い。黒犬に腿《もも》を咬《か》まれて驚いたなどという下らない夢を見る人は、※[#「寤」の「うかんむり」にかえて「穴かんむり」、第4水準2−83−20]《さ》めていても、蚤《のみ》に猪《い》の目を螫《さ》されて騒ぐくらいの下らない人なのである。竜樹や観音に応対した夢を見たなどとは、随分|洒落《しゃれ》ている、洒落た日常を有《も》っていた人で無くては見られない。兎に角これだけの恵心が問目二十七条を撰した。これを支那の知礼法師に示して其答えを得ようというのである。いや、むしろ問を以て教となそうというのだったかも知れない。そこで此を持たせてやるのに、小僧さんの御使では仕方が無い。丁度寂照がかねてから渡宋して霊場参拝しようという念を抱いて居たので、これを托《たく》すことにした。其頃大陸へ渡るということは、今日南氷洋へ出掛けて鯨を取るというよりも大騒ぎなことであった。然し恵心に取っても寂照に取っても、双方共都合のよいことであったから寂照は母の意を問うた上で出ることにした。滄海《そうかい》波遥なる彼邦《かのくに》に吾が児を放ち遣ることは、明日をも知らぬ老いた母に取っては気の楽なことでは無かった。然し母も流石《さすが》に寂照の母であった。恩愛の情は母子より深きは無い、今そなたと別れんことは実《まこと》に悲しけれど、汝《そなた》にして法《のり》のため道のために渡宋せんことは吾《われ》も亦随喜すべきである、我いかで汝の志を奪うべきや、と涙ながらに許してくれた。で、寂照は表を上《たてまつ》りて朝許を受け、長保四年愈々出発渡宋することになった。
 寂照には成基尊基の二弟があって、成基は此頃既に近江守にもなっていたであろうから、老母を後に出て行く寂照には、せめてもの心強さであったろう。然し寂照が老母を後に、老母が寂照を引留めずに、慈母孝子互に相別るるということは甚だしく当時の社会を感動せしめた。しかも上《かみ》は宮廷より下《しも》は庶民までが尊崇《そんそう》している恵心院|僧都《そうず》の弟子であり、又僧都の使命を帯びているということもあり、彼の人柄も優にやさしかった大内記の聖《ひじり》寂心の弟子であるということもあり、三河守定基の出家因縁の前後の談の伝わって居たためもあり、老若男女、皆此噂を仕合った。で、寂照が願文《がんもん》を作って、母の為めに法華《ほっけ》八講《はっこう》を山崎の宝寺に修《しゅ》し、愈々本朝を辞せんとした時は、法輪|壮《さか》んに転じて、情界|大《おおい》に風立ち、随喜|結縁《けちえん》する群衆《ぐんじゅ》数を知らず、車馬|填咽《てんえつ》して四面|堵《と》を成し、講師の寂照が如法に文を誦
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