4]の大熱は、それだけ彼女の身を去って彼女に清涼を与えるわけになった。我に射掛くる利箭《りせん》の毒は、それだけ彼女の懐を出でて彼女の※[#「匈/月」、946−下−14]裏《きょうり》を清浄《しょうじょう》にすることになった。我を切り、突き、※[#「宛+りっとう」、第4水準2−3−26]らんとする一切|兇悪《きょうあく》の刀槍剣戟《とうそうけんげき》の類は、我に触れんとするに当って、其の刃頭が皆|妙蓮華《みょうれんげ》の莟《つぼみ》となって地に落つるを観た。施行《せぎょう》の食《し》は彼の我に与うるによって彼の檀波羅密《だんはらみつ》を成《じょう》じ、我の彼に受けて酬《むく》いるに法を与うるを以てするの故に、我の檀波羅密を成じ、速疾得果の妙用を現ずるを観た。寂照は「あな、とうと」と云いて端然《たんねん》と食《し》を摂《と》り、自他平等|利益《りやく》の讃偈《さんげ》を唱えて、しずかに其処を去った。戒波羅密や精進波羅密、寂照は愈々《いよいよ》道に励むのみであった。彼女は其後|何様《どう》なったかは伝わって居らぬが、恐らくは当時の有識階級の女子であったから、多分は仏縁に引かれて化度《けど》されたでもあったろう。
寂照は寂心恵心の間に挟まり、其他の碩徳《せきとく》にも参学して、学徳日に進んで衆僧に仰がれ依らるるに至り、幾干歳《いくばくさい》も経ないで僧都《そうず》になった。僧都だの僧正《そうじょう》だのというのは、俗界から教界を整理する便宜上から出来たもので、本来から云えば、名誉でもなく、有るべき筈もないものだが、寂照が僧都にされたことは、赤染集に見えている。寂心は僧官などは受けなかったようだが、一世の崇仰《すうぎょう》を得たことは勿論であって、後には天《あめ》が下を殆どおのが心のままにしたように謂《い》われ、おのれも寛仁の二年の冬には、自己満足の喜びの余りに「此世をば吾《わ》が世とぞおもふ望月《もちづき》のかけたることも無しとおもへば」と、実にケチな歌を詠んで好い気になった藤原道長も、寂心を授戒の師と頼んだのであった。何も道長が寂心に三帰五戒を授かったからとて寂心の為に重きを成すのでは無いが、あの果報いみじくて※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢至極であった御堂関白が、此の瘠《や》せぼけたおとなしい寂心を授戒の師とし、自分は白衣《びゃくえ》の弟子とし
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