「あの乞丐《かたい》、如是《かく》てあらんを見んと思いしぞ」と言った。寂照は女を見た。女も寂照を見た。眼と眼とは確かに見合せた。女は正《まさ》しく寂照が三河守定基であった時に逐《おい》出《いだ》した其女であった。女の眼の中には無量なものがあった。怨恨《えんこん》の毒気のようなものもあった、勝利を矜《ほこ》るようなものもあった、冷やかなものもあった、甚だしい軽蔑《けいべつ》もあった、軽蔑し罵倒《ばとう》し去っての哀れみのようなものもあった、猶《なお》自己《おの》が不幸に沈淪《ちんりん》している苦痛を味わいかえして居るが如きものもあった、又其の反対に飽《あく》までも他を嘲《あざけ》りさいなむような、氷ででも出来た利刃の如きものもあって、それは定基の身体のあらゆるところを深く深く※[#「宛+りっとう」、第4水準2−3−26]《えぐ》りまわろうとした。割り口説いて云えば斯様《こう》でもあるが、何もそれが一ツ一ツに存在しているのではなく、皆が皆一緒になって、青黄赤白、何の光りともない毒火の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》となって迸《ほとばし》り出て掩《おお》いかかるのであった。そして女は極めて緩く鈍く薄笑いに笑った。それは笑いというべきものであったか、何であったか分らぬ、如何なる画にも彫刻にも無い、妖異《ようい》で凄惨《せいさん》なものであった。
定基が定基であったなら、一石が池水に投ぜられたのであったから、波瀾淪※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《はらんりんい》はここに生ぜずには済まなかったろう。然し寂照は寂照であった、鳥影が池上に墜《お》ちたのみであったから、白蘋緑蒲《はくひんりょくほ》、かつて動かずであった。今は六波羅密《ろくはらみつ》の薄い衣《ころも》に身を護られて、風の射る箭《や》もとおらざる境界《きょうがい》に在るものであった。忍辱《にんじょく》波羅密《はらみつ》、禅波羅密、般若《はんにゃ》波羅密の自然の動きは、逼《せま》り来る魔※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《まえん》をも毒箭をも容易に遮断し消融せしめた。寂照はただ穏やかに合掌した。諸仏|菩薩《ぼさつ》の虚空に充満して居られて此方を瞰《み》ていらるるに対し、奉恩謝徳の念のみの湧き上るに任せた。我に吹掛ける火※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−6
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