る。本来を云えば此の優美でも円満でも清浄でも無い娑婆世界を洗いかえそうというのが頭陀行で、そのために仏子となって仏法に帰依し、自分は汚《むさ》い色目も分らぬ襤褸《らんる》を着て甘んじ、慾得ずくからの職業産業から得るのでない食物を食って足れりとし、他を排しおのれを護る住宅でもないところに身を安んじ、そして一念ただ清涼無熱悩の菩提に帰向し了《おわ》らんとするのが頭陀行である。其の頭陀行の中《うち》の常乞食は、一には因縁|所生《しょしょう》の吾が身を解脱に至らしむるまでの経程を為すのである、二には我に食を施す者をして仏宝法宝僧宝の三宝に帰依せしむ、三には我に食を施すものをして悲心を生ぜしむ、四には我に我心無し、仏の教行に順ずるなり、五には満ち易く養い易く、安易の法なり、六には諸悪の根幹たる※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢《きょうまん》を破る、七には最卑下の法を行ずるに因りて最頂上相の感得を致す、八には他の善根を修する者の倣《なら》うことを生ず、九には男女大小の諸《もろもろ》の縁事を離る、十には次第に乞食《こつじき》するが故に、衆生の中《うち》に於て平等|無差別《むしゃべつ》の心を生ず。これであるから余りに鄭重《ていちょう》な供養を提出された時に、恵心が其の燦爛《さんらん》たる膳部に対して「かくては余りに見ぐるし」と云ったのも無理はないことで、ぴかぴかきらきらしたものを「見ぐるしい」としたのは流石《さすが》に恵心であった。其の恵心の弟子同様の寂照である。これは三河守だった昨日に引かえて、今日は見るかげも無い青道心である。次第《しだい》乞食は之を苦しいとはせぬであったろうが、かなり苦しいことでもあったろう。次第乞食とは、良い家も貧しい家も撰《えら》まず、鉢を持して次第に其門に立って食《し》を乞うのである。或日の事寂照は師の恵心の如く頭陀行《ずだぎょう》をした。一鉢三衣《いっぱつさんえ》、安詳に家々の前に立って食を乞うたのである。すると一軒の家に喚《よ》び入れられた。通って見ると、食物を体よくして「庭に畳を敷きて、供養しようとしたのである。何の心も無く其畳に居て、唱え言をして食わんとした。其時そこに向いて下《おろ》してあった簾《すだれ》を捲上《まきあ》げたので、そなたを見ると、好き装束した女の姿が次第にあらわれた。簾は十分に上げられた。誰に言うたのか、女は
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