す》つるのである、力寿定基は終《つい》に死相捐てたのである。
 力寿に捐てられ、力寿を捐てた後の定基は何様なったか。何様も無い、斯様《こう》も無い、ただそこには空虚があったばかりであった。定基は其空虚の中に、頭《かしら》は天を戴くでもなく、脚は地を履《ふ》むでも無く、東西も知らず南北も弁《わきま》えず、是非善悪吉凶正邪、何も分らずふらふらと月日を過した。其|中《うち》に四月が来て、年々の例式で風祭りということをする時が来た。風祭りと云っても、万葉の歌の、花に嵐を厭うて「風な吹きそと打越えて、名に負へる森に風祭りせな」というような風流な風祭りではない。三河の当時の田舎の神祭りの式で、生贄《いけにえ》を神に献じて暴風悪風の田穀を荒さぬようにと祈るのであった。趣意はもとより悪いことではない、例は年々行われて来たことだった。定基は三河の守である、式には勿論あずかったのである。ただ其の生贄を献《ささ》げるというのは、野猪《いのしし》を生けながら神前に引据えて、男共が情も無くおろしたのであった。野猪は鈍物でも殺されるのを合点して忍従する訳は無いから、逃れようともすれば、抵抗もする。終に敵《かな》わずして変な声を出して哀しみ困《くるし》んで死んでしまうのであった。定基はこれを見て、いやに思った。が、それは半途で止める訳にはゆかぬから、自ら堪えて其儘《そのまま》に済ませて終った。生贄ということは何時から始まったか知らぬが、吾が邦《くに》では清らな神代の古《いにしえ》にはなかったようである。支那では古からあったことのようであるが、犠牲の観念は吾が神国にも支那の思想や文物の移入と共に伝わったのではないか、既に今昔物語には人身|御供《ごくう》の物語が載っていて、遥かに後《のち》の宮本左門之助の武勇談などの祖と為っている。社会組織の発達の半途にあっては、生贄の是認せらるべき趨勢《すうせい》は有りもしようが、※[#「穀」の「禾」に代えて「角」、第4水準2−88−48]※[#「角+束」、第4水準2−88−45]《こくそく》たる畜類の歩みなどを見ては、人の善良な側の感情から見て、神に献げるとは云え、何様も善いことか善くない事か疑わしいと思わずには居られないことである。換言すれば犠牲ということを可なりとする社会善というものが、果して善であろうか、然様で無かろうかも疑わしいことである。然し豪傑主義か
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