》の御孫の子思子《ししし》が妻を去られたことは分明である。又其章の、門人が子思子に問われた言葉に、「昔は子《し》の先君子出母を喪せる乎《か》」とあるによれば、子思子の父の子伯魚も妻を去られたようである。イヤ、それよりも同じ章の別の条に、「伯魚の母死す、期にして而して猶《なお》哭《こく》す」の文によれば、伯魚の母即ち孔子の妻も、吾が聖人|孔夫子《こうふうし》に去られたことは分明である。何様《どう》いう仔細あって聖人が子まであった夫人を去られたか、それはそれがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬが、孔子は年十九にして宋《そう》の幵官氏《けんかんし》を娶《めと》られ、其翌年に鯉《り》字《あざな》は伯魚を生ませたもうたのである。伯魚が出母の死に当り期にして猶《なお》哭《こく》せるは、自然であるが、孔子が幵官氏を出し玉うたのは、因縁不和とよりそれがしには合点がならぬ。聖人の徳、家を斉《ととの》うるに足らなかったとは誰も申し得ぬ。しかし夫子も上智と下愚とはうつらずと申して居らるる。うつらずとは徳化も及ばざることでござろう。聖人の盛徳といえども、御年猶若かりし頃には、堪えかねて見放したもうて去られしもの歟《か》、或は幵官氏に宜しからぬことのありし歟。すべて遠き古《いにしえ》の事、考え知らんにも今如何ともし難けれど、我等凡愚にはただ因縁不可思議とのみ存ずる、何様いうものでござろうか、と意外な逆手に出られた。これは何も定基が匡衡より学識が勝《すぐ》れていた故というのでは無いが、定基の方は自分の境遇の現在から斯様《こう》いうことを実際の問題にして、いろいろ苦悩して考えていたからである。匡衡は一寸身を退《ひ》かずには居られなかった。相撲なら、ここで定基の出足さえ速かったら、匡衡は手もなく推出されて終《しま》うところだったが、何も定基は勝負《かちまけ》を争うつもりのわけでは無かったから、追窮するような態度に出無かった。が、匡衡の方では、明らかに自分が推戻されてたじたじとなったのを感じた。けれども匡衡も鳶肩倔強《えんけんくっきょう》の男児だ、斯様なると話が学問がかったところで推出されじまいになるのには堪えられなかった。何も争いを仕に来たので無いのは知れきったことだが、負けたようになって引退《ひきさが》ることは厭《いや》だった。そこは流石《さすが》に才子で、粟津の浜に精兵を率いて駈通るような文章を作る
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