男だけに、檀弓は六国《りくこく》の人、檀弓一篇は礼記《らいき》に在りと雖《いえど》も、もと伝聞に出ずるもので、多く信ず可からず、というような論は、云えば云えぬでは無いが、そんな迂《う》なことを馬鹿正直に云うよりも、相手の推しを其儘《そのまま》にいなせて、「如何にも」と云ったまま少時《しばらく》考えたが、忽《たちま》ち思い得たところがあったか薄笑いして、成程、聖人も性の合わぬ妻を去られたということは有ったでもござろう、然し聖人は妻を去られたにしても、其後《そののち》他の婦人を迎えて妻とせられたことは無いように存ずる、其証は孔子の御子は伯魚一人|限《ぎ》りで、幵官氏の出《しゅつ》ただ一人《いちにん》、其他に伯魚の弟、妹というものは無かったのでござる、又孔子が継室を迎えられた、それは何氏であったということも、それがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬでござるが、と談話は実に斡旋《あっせん》の妙を極めた。此度は定基の推した手を却《かえ》って軽く引いて置いて、側《そば》から横へ推したようなものだった。定基は抵抗されたのでは無いが、思わぬ方《かた》へ身を持って行かれたのであった。妻を去るのは去るにしても、力寿を其|後《あと》へ入れることは無くてあるべきように云われたのである。元来聖人などを持出したのが、変なことだったので、変なことの結果は変なことになって終ったのである。双方の話は生活の実際に就てであったのだが、歯に物の挟まった物の云い方を仕合った結果は、書物の古話になってしまった。しかしそれも好かった、書生の閑談で事は終って了って、何等のいさくさも無く稜立《かどだ》つことも無く済んで了った。
但し双方とも、平常の往来、学問文章の談論でなくて有ったことは互の腹に分って居ない筈は無かったのだから、匡衡の方は人が折角親切気で物を云ってやったに、分らぬ男だと思えば、定基の方は大きな御世話で先日は生才女《なまさいじょ》、今日は生学者が何を云って来居るのだ、それも畢竟《つまり》は家の女めが何か彼か外へ漏らすより、と腹なりを悪くしたに違無い。物の因縁というものは、善くなるのも悪くなるのも、都《す》べて斯様いうもので、親切は却って仇《あだ》となり、助けは却って障りとなって、正基は愈々《いよいよ》妻を疎み、妻は愈々夫を恨み、無言の冷眼と嫉妬《しっと》のひぞり言とは、日に戦ったが、定基は或はずみに遂に妻
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