方の側からは、自然と匡衡の方は羨ましいものに見え、従って自分の方の現在が余計|忌々《いまいま》しいものに見えたに違い無く、匡衡の方からは、定基の方を、気の毒な、従って下らないものに見ていたと思われる。まして定基の妻からは、それこそ饑《う》えたる者が人の美饌を享くるを見る感《おもい》がしたろうことは自然であって、余計にもしゃくしゃが募ったろうことは測り知られる。
 赤染右衛門は生れだちから苦労を背負《しょ》って来た女で、まだ当人が物の色さえ知らぬころから、なさけ無い争の間に立たせられたのであった。というのは右衛門の母が、何様いう訳合があったか、何様いう身分の女であったのか、今は更に知れぬことであるが、右衛門が赤染を名乗ったのは、赤染|大隅守《おおすみのかみ》時用《ときもち》の子として育ったからである。然るに歌人として名高い平兼盛が、其当時、生れた子を吾《わ》が女《むすめ》と称して引取ろうとしたのである。検非違使沙汰《けびいしざた》となった。検非違使庁は非違を検《あらた》むるところであるから、今の警視庁兼裁判所のようなものである。母は其子を兼盛の胤《たね》では無いと云張り、兼盛は吾子《わがこ》だと争ったが、畢竟《ひっきょう》これは母が其子を手離したくない母性愛の本然《ほんねん》から然様《そう》云ったのだと解せられもするが、又吾が手を離れた女の其子を強いても引取ろうとするのはよくよく正しい父性愛の強さからだとも解せられるのである。であるから男女の情理から判断すれば、兼盛の方に分があって、女には分が乏しい。まして生長し上った赤染右衛門は歌人であった兼盛の血を享けたと見えて、才学|凡《つね》ならぬ優秀なものとなり、赤染時用という検非違使から大隅守になっただけで別に才学の噂も無い平凡官吏の胤とも思われない。であるから、当時を去ること遠からぬ清輔朝臣抄などにも、実《まこと》には兼盛の女《むすめ》云々《うんぬん》と出ているのである。よくよく事情を察するに、当時は恋愛至上主義の行われていた世で、女は愛情の命ずるがままに行動して、それで自から欺かぬ、よい事と許されていた惰弱《だじゃく》時代であったから、右衛門の母は兼盛と、手を繋《つな》いで居た間に懐胎したが、何様いう因縁かで兼盛と別れて時用の許《もと》へ帰したのである。兼盛は卅六歌仙の一人であり、是忠親王の曾孫《そうそん》であり、父の
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