ある大江匡衡があった。匡衡は大江維時の嫡孫であって、家も其格が好い。定基は匡衡の父重光の弟の斉光の子で、しかも二男坊である。匡衡定基はおよそ同じほどの年頃であるが、才学は優劣無いにしても匡衡は既に文名を馳《は》せて大《おおい》に称せられている。それやこれやの関係で、自然定基は匡衡に雁行する位置に立って居る。そこへ持って来て匡衡は、定基が妻を迎えたと彼是《かれこれ》同じ頃に矢張り妻を迎えたのである。いずれもまだ何年もたたぬ前のことである。匡衡は七歳にして書を読み、九歳にして詩を賦したと云われた英才で、祖父の維時の学を受け、長じて博学、渉《わた》らざるところ無しと世に称せられていた。其文章の英気があって、当時に水際だっていたことは、保胤の評語に、鋭卒数百、堅甲を※[#「環」の「王」に代えて「てへん」、第3水準1−85−3]《ぬ》き駿馬《しゅんめ》に鞭《むち》うって、粟津の浜を過ぐるが如し、とあったほどで、前にも既に其事は述べた。しかも和歌までも堪能《かんのう》で、男ぶりは何様《どう》だったか、ひょろりとして丈高く、さし肩であったと云われるから、ポッチャリとした御公卿《おくげ》さん達《だち》の好い男子《おとこ》では無かったろうと思われる。さし肩というのは、菩薩肩《ぼさつがた》というのとは反対で、菩薩肩は菩薩像のような優しい肩つき、今でいう撫肩であり、さし肩というのは今いう怒り肩で漢語の所謂《いわゆる》鳶肩《えんけん》である。鳶肩|豺目《さいもく》結喉《けっこう》露唇《ろしん》なんというのは、物の出来る人や気嵩《きがさ》の人に、得てある相だが、余り人好きのする方では無い。だから男振りは好い方であったとも思われないが、此の匡衡の迎えた妻は、女歌人《じょかじん》の中《うち》でも指折りの赤染《あかぞめ》右衛門《えもん》で、其頃丁度匡衡もまだ三十前、赤染右衛門も二十幾歳、子の挙周《たかちか》は生れていたか、未だ生れていなかったか知らないが、若盛りの夫婦で、女貌郎才、相当って居り、琴瑟《きんしつ》こまやかに相和して人も羨《うらや》む中であったろうことは思いやられるのである。さて定基夫婦の間の燻《ふすぶ》りかえり、ひぞり合い、煙《けむ》を出し火を出し合うようになっている傍に、従兄弟同士の匡衡夫婦の間は、詩思歌情、ハハハ、オホホで朝夕《ちょうせき》を睦《むつ》び合っているとすれば、定基の
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