て闘うに至るのが、世間|有勝《ありがち》の事である。即ち出すの引くのという騒動になるのである。ここになると小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりゃこそ、時至れりとばかり筆を揮《ふる》って、有ること無いこと、見て来たように出たらめを描くのである。と云って置いて、此以下少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思っていただきたい。但し出たらめを描くようにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。
 定基の妻の名は何と云ったか、何氏《なにうじ》の女《むすめ》であったか、それは皆分らない。此頃の女は本名が無かった訳ではあるまいが、紫式部だって、本名はおむらだったかお里だったか、誰も知らない、清少納言だって、本名はおきよだったかおせいだったか、誰も知らない、知ってる方は手をあげなさいと云われたって、大抵の人は懐手で御免を蒙るでしょう。まさか赤[#(ン)]坊の時から、紫式部や、おっぱい御上り、清少納言や、おしっこをなさい、ワンワン来い来い、などと云われたので無かろうことは分っているが、仙人の女王、西王母の、姓は侯《こう》、名は婉※[#「女+今」、932−中−26]《えんせん》、などと見えすいた好い加減なことを答えるよりは面倒だから、其儘《そのまま》にして置こう。美人だったか、醜婦だったかも不明だが、先ず十人並の人だったとして置いて差支えは無かろうが、其の気質だけは温和で無くて、強《きつ》い方だったろうことは、連添うた者と若い身そらで争い別れをしたことでも想いやられる。此女が定基に対して求めたことは無論|恋敵《こいがたき》の力寿を遠ざけることであったろうが、定基は力寿に首ったけだったから、それを承知すべくは無いし、又|直截《ちょくせつ》な性質の人だったから、吾《わ》が妻に対することでは有り、にやくやに云《いい》紛《まぎ》らして、※[#「施」の「方」に代えて「てへん」、第3水準1−84−74]泥《たでい》滞水の挨拶を以て其場を済ませて置くというようなことも仕無かったろうから、次第次第に夫婦の間は険悪になっていったであろう。ところが、飢えたる者は人の美饌《びせん》を享《う》くるを見ては愈々飢の苦《くるしみ》を感ずる道理がある。飽《あ》ける者は人の饑餓《きが》に臨めるを見ては、余計に之を哀れむの情を催す道理がある。ここに定基に取っては従兄弟同士で
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