基には定まった妻があったのであって、其妻が徳川時代の分限者《ぶげんしゃ》の洒落《しゃれ》れた女房《にょうぼ》のように、わたしゃ此の家の床柱、瓶花《はな》は勝手にささしゃんせ、と澄ましかえって居てくれたなら論は無かったのだが、然様《そう》はいかなかった。一体女というものほど太平の恩沢に狎《なら》されて増長するものは無く、又|嶮《けわ》しい世になれば、忽《たちま》ち縮まって小さくなる憐れなもので、少し面倒な時になると、江戸褄《えどづま》も糸瓜《へちま》も有りはしない、モンペイはいて。バケツ提げて、ヒョタコラ姿の気息《いき》ゼイゼイ、御いたわしの御風情やと云いたい様になるのであるが、天日とこしえに麗わしくして四海波穏やかなる時には、鬚眉《しゅび》の男子皆御前に平伏して御機嫌を取結ぶので、朽木形の几帳《きちょう》の前には十二一重の御めし、何やら知らぬびらしゃらした御なりで端然《たんねん》としていたまうから、野郎共皆ウヘーとなって恐入り奉る。平安朝は丁度太平の満潮、まして此頃は賢女《けんじょ》才媛《さいえん》輩出時代で、紫式部やら海老茶式部、清少納言やら金時大納言など、すばらしい女が赫奕《かくえき》として、やらん、からん、なん、かん、はべる、すべるで、女性《にょしょう》尊重仕るべく、一切異議|申間敷《もおすまじく》候と抑えられていた代《よ》であったから、定基の妻は中々納まっては居なかった、瞋恚《しんい》の火《ほ》むらで焼いたことであったろう。いや、むずかしくも亦おそろしく焼き立てたことであったろう。ところが、火の傍へ寄れば少くとも髭《ひげ》は焼かれるから、誰しも御免|蒙《こうむ》って疎み遠ざかる。此の方を疎みて遠ざかれば、余分に彼方を親み睦《むつ》ぶようになる。彼方に親しみ、此方に遠ざかれば、此方は愈々《いよいよ》火の手をあげる。愈々逃げる、愈々燃えさかる。不動尊の背負《しょ》って居らるる伽婁羅炎《かるらえん》という火は魔が逃げれば逃げるだけ其|火※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》が伸びて何処までも追駈けて降伏《ごうぶく》させるというが、嫉妬《しっと》の火もまた追駈ける性質があるから、鬚髭《ひげ》ぐらい焼かれる間はましもだが、背中へ追いかかって来て、身柱大椎《ちりけだいつい》へ火を吹付けるようにやられては、灸《きゅう》を据えられる訳では無いし、向直っ
前へ
次へ
全60ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング