までに至った人で、贈従二位大江|維時《これとき》の子であった。大江の家は大江|音人《おとんど》以来、儒道文学の大宗《たいそう》として、音人の子玉淵、千里、春潭《はるふち》、千古《ちふる》、皆詩歌を善くし、千里は和歌をも善くし、小倉百人一首で人の知っているものである。玉淵の子朝綱、千古、千古の子の維時は皆文章博士であり、維時の子の重光の子の匡衡《まさひら》も文章博士、維時の子の斉光は東宮学士、斉光の子の為基も文章博士であり、大江家の系図を覧《み》れば、文章博士や大学頭《だいがくのかみ》の鈴なりで、定基は為基の弟、匡衡とは従兄弟同士である。で、定基は父祖の功により、早く蔵人《くろうど》に擢《ぬきん》でられ、尋《つい》で二十何歳かで三河守に任ぜられたが、然様《そう》いう家柄の中に出来た人なので、もとより文学に通じ詞章を善くし、又是れ一箇の英霊底の丈夫であった。大江の家に対して、菅原古人以来、特《こと》に古人の曾孫《そうそん》に道真公を出したので大《おおい》に家声を挙げた菅原家もまた当時に輝いていたが、寂心の師事した文時は実に古人六世の孫であり、匡衡の如きも亦文時に文章詩賦の点鼠《てんざん》を乞うたというから、定基も勿論同じ文雅の道の流れのものとして、自然保胤即ち寂心とは知合で、無論年輩の関係から保胤を先輩として交っていたろうことは明らかである。
 三河守定基は、まだ三十歳にもならないのに、三河守に任ぜられたことは、其父祖の功労によったことは勿論であるが、長男でもあらばこそ、次男の身を以て其処まで出世していたことは、一は其人物が英発して居って、そして学問詞才にも長《た》け、向上心の強い、勇気のある、しかも二王の筆致を得ていたと後年になって支那の人にさえ称讃されたほどであるから、内に自から収め養うところの工夫にも切なる立派な人物、所謂《いわゆる》捨てて置いても挺然《ていぜん》として群を抜くの器量が有ったからであったろう。
 此の定基が三十歳、人生はこれからという三十歳になるやならずに、浮世を思いきって、簪纓《しんえい》を抛《なげう》ち棄て、耀《かがや》ける家柄をも離れ、木の端、竹の片《きれ》のような青道心《あおどうしん》になって、寂心の許《もと》に走り、其弟子となったのは、これも因縁|成熟《じょうじゅく》して其処に至ったのだと云えば、それまでであるが、保胤が長年の間、世路に彷
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