世俗に反り、冠などして、無間地獄《むげんじごく》に陥る業を造りたまうぞ、誠に悲しき違乱のことなり、強いて然《さ》ることせんとならば、ただここにある寂心を殺したまえ、と云いて泣くことおびただしいので、陰陽師は何としようも無く当惑したが、飽《あく》まで俗物だから、俗にくだけて打明け話に出た。仰せは一々御もっともでござる、しかし浮世の過しがたさに、是《かく》の如くに仕る、然らずば何わざをしてかは妻子をばやしない、吾《わ》が生命《いのち》をも続《つな》ぐことのなりましょうや、道業《どうごう》猶《なお》つたなければ上人とも仰がれず、法師の形には候えど俗人の如くなれば、後世《ごせ》のことはいかがと哀しくはあれど、差当りての世のならいに、かくは仕る、と語った。何時の世にも斯様《こう》いう俗物は多いもので、そして又|然様《そう》いう俗物の言うところは、俗世界には如何にも正しい情理であると首肯されるものである。しかし折角殊勝の世界に眼を着け、一旦それに対《むか》って突進しようと心ざした者共が、此の一関《いっかん》に塞止《せきと》められて已《や》むを得ずに、躊躇《ちゅうちょ》し、俳徊《はいかい》し、遂に後退するに至るものが、何程《どれほど》多いことであろうか。額を破り※[#「匈/月」、930−上−5]《むね》を傷つけるのを憚《はば》からずに敢て突進するの勇気を欠くものは、皆此の関所前で歩を横にしてぶらぶらして終《しま》うのである。芸術の世界でも、宗教の世界でも、学問の世界でも、人生戦闘の世界でも、百人が九十九人、千人が九百九十九人、皆此処で後《あと》へ退《さが》って終うのであるから、多数の人の取るところの道が正しい当然の道であるとするならば、疑も無く此の紙の冠を被《かぶ》った世渡り人《びと》の所為は正しいのである、情理至当のことなのである。寂心は飾り気の無い此の御房の打明話には、ハタと行詰らされて、優しい自分の性質から、将又《はたまた》智略を以て事に処することを卑しみ、覇気を消尽するのを以て可なりとしているような日頃の修行の心掛から、却《かえ》ってタジタジとなって押返されたことだったろう。ヤ、それは、と一句あとへ退った言葉を出さぬ訳にはゆかなかった。が、しかし信仰は信仰であった。さもあればあれ、と一[#(ト)]休め息を休めて、いかで三世如来の御姿を学ぶ御首《みぐし》の上に、勿体無くも俗
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