からは、愈々精神を抖※[#「てへん+數」、第3水準1−85−5]《とそう》して、問法|作善《さぜん》に油断も無かった。伝には、諸国を経歴して広く仏事を作《な》した、とあるが、別に行脚の苦修談《くじゅだん》などは伝えられていない。ただ出家して後わずかに三年目には、自分に身を投げかけて来た者を済度して寂照という名を与えた。此の寂照は後に源信の為に宋に使《つかい》したもので、寂心と源信とはもとより菩提《ぼだい》の友であった。源信の方が寂心よりは少し年が劣って居たかも知らぬが、何にせよ幼きより叡山《えいざん》の慈慧に就いて励精刻苦して学び、顕密|双修《そうじゅ》、行解《ぎょうげ》並列の恐ろしい傑物であった。此の源信と寂心との間の一寸面白い談《はなし》は、今其の出処を確記せぬが、閑居之友であったか何だったか、何でも可なり古いもので見たと思うのである。記憶の間違だったら抹殺して貰わねばならぬが。
 或時寂心は横川の慧心院《えしんいん》を訪《と》うた。院は寂然《じゃくねん》として人も無いようであった。他行であるか、禅定であるか、観法であるか、何かは知らぬが、互に日頃から、見ては宜からぬ、見られては宜からぬ如き行儀を互に有《も》たぬ同士であるから、遠慮無く寂心は安詳《あんじょう》にあちこちを見廻った。源信は何処にも居なかった。やがて、ここぞと思う室《へや》の戸を寂心は引開けた。すると是《こ》は如何に、眼の前は茫々漠々《ぼうぼうばくばく》として何一ツ見えず、イヤ何一ツ見えないのでは無い、唯是れ漫々洋々として、大河《だいが》の如く大湖の如く大海《だいかい》の如く、※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]々《いい》たり瀲々《れんれん》たり、汪々《おうおう》たり滔々《とうとう》たり、洶《きょう》たり沸《ふつ》たり、煙波|糢糊《もこ》、水光天に接するばかり、何も無くして水ばかりであった。寂心は後《あと》へ一[#(ト)]足引いたが、恰《あたか》もそこに在った木枕を取って中へ打込み、さらりと戸をしめて院外へ出て帰ってしまった。源信はそれから身痛を覚えた。寂心が来て卒爾《そつじ》の戯れをしたことが分って、源信はふたたび水を現じて、寂心に其中へ投げ入れたものを除去させた。源信はもとの如くになった。
 此の談は今の人には、ただ是れ無茶苦茶の譚《だん》と聞えるまでであろう。又これを理解のゆくように
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