記を為せるは、天元五年の冬、保胤四十八九歳ともおもわれる。
 保胤が日本往生極楽記を著わしたのは、此の六条の池亭に在った時であろうと思われる。今存している同書は朝散大夫著作郎慶保胤撰《ちょうさんたいふちょさくろうきょうほういんせん》と署名してある、それに拠れば保胤が未だ官を辞せぬ時の撰にかかると考えられるからである。其書に叙して、保胤みずから、予|少《わか》きより日に弥陀仏を念じ、行年四十以後、其志|弥々《いよいよ》劇《はげ》しく、口に名号を唱え、心に相好《そうごう》を観じ、行住|坐臥《ざが》、暫くも忘れず、造次|顛沛《てんぱい》も必ず是に於てす、夫《か》の堂舎|塔廟《とうびょう》、弥陀の像有り浄土の図ある者は、礼敬《らいきょう》せざるなく、道俗男女、極楽に志す有り、往生を願う有る者は、結縁《けちえん》せざる莫《な》し、と云って居るから、四十以後、道心日に募りて已《や》み難く、しかも未だ官を辞さぬ頃、自他の信念勧進のために、往生事実の良験《りょうげん》を録して、本朝四十余人の伝をものしたのである。清閑の池亭の中《うち》、仏前|唱名《しょうみょう》の間々《あいあい》に、筆を執って仏|菩薩《ぼさつ》の引接《いんじょう》を承《う》けた善男善女の往迹《おうじゃく》を物しずかに記した保胤の旦暮《あけくれ》は、如何に塵界《じんかい》を超脱した清浄三昧《しょうじょうさんまい》のものであったろうか。此往生極楽記は其序に見える通り、唐の弘法寺《ぐほうじ》の僧の釈迦才《しゃくかさい》の浄土論中に、安楽往生者二十人を記したのに傚《なら》ったものであるが、保胤往生の後、大江匡房《おおえのまさふさ》は又保胤の往生伝の先蹤《せんしょう》を追うて、続本朝往生伝を撰《せん》している。そして其続伝の中には保胤も採録されているから、法縁|微妙《みみょう》、玉環の相連なるが如しである。匡房の続往生伝の叙に、寛和年中、著作郎慶保胤、往生伝を作りて世に伝う、とあるに拠れば、保胤が往生伝を撰したのは、正しく保胤が脱白|被緇《ひし》の前年、五十一二歳頃、彼の六条の池亭に在った時ででもあったろう。
 保胤が池亭を造った時は、自ら記して、老蚕の繭《まゆ》を成せるがごとしと云ったが、老蚕は永く繭中《けんちゅう》に在り得無かった。天元五年の冬、其家は成り、其記は作られたが、其翌年の永観元年には倭名類聚抄《わみょうるいじ
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