水九の三、菜園八の二、芹田《きんでん》七の一、とあるので全般の様子は想いやられるが、芹田七の一がおもしろい。池の中の小島の松、汀《みぎわ》の柳、小さな柴橋、北戸の竹、植木屋に褒められるほどのものは何一ツ無く、又先生の眉を皺《しわ》めさせるような牛に搬《はこ》ばせた大石なども更に見えなくても、蕭散《しょうさん》な庭のさまは流石に佳趣無きにあらずと思われる。予行年|漸《ようや》く五旬になりなんとして適々《たまたま》少宅有り、蝸《か》其舎に安んじ、虱《しらみ》其の縫を楽む、と言っているのも、けちなようだが、其実を失わないで宜い。家主、職は柱下に在りと雖《いえど》も、心は山中に住むが如し。官爵は運命に任す、天の工|均《あまね》し矣。寿夭《じゅよう》は乾坤《けんこん》に付す、丘《きゅう》の祷《いの》ることや久し焉。と内力少し気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《きえん》を揚げて居るのも、ウソでは無いから憎まれぬ。朝に在りて身暫く王事に随《したが》い、家にありては心永く仏那《ぶつな》に帰す、とあるのは、儒家としては感服出来ぬが、此人としては率直の言である。夫《か》の漢の文皇帝を異代の主と為す、と云っているのは、腑に落ちぬ言だが、其後に直《ただち》に、倹約を好みて人民を安んずるを以てなり、とある。一体異代の主というのは変なことであるが、心裏に慕い奉《まつ》る人というほどのことであろう。倹約を好んで人民を安んずる君主は、真に学ぶべき君主であると思っていたからであろうか、何も当時の君主を奢侈《しゃし》で人民を苦める御方《おんかた》と見做《みな》す如き不臣の心を持って居たでは万々《ばんばん》あるまい、ただし倹約を好み人民を安んずるの六字を点出して、此故を以て漢文を崇慕するとしたに就ては、聊《いささ》か意なきにあらずである。それは此記の冒頭に、二十余年以来、東西二京を歴見するに、云々《うんぬん》と書き出して、繁栄の地は、高家比門連堂、其価値二三畝千万銭なるに至れることを述べて居るが、保胤の師の菅原文時が天暦十一年十二月に封事三条を上《たてまつ》ったのは、丁度二十余年前に当って居り、当時文化日に進みて、奢侈の風、月に長じたことは分明《ぶんみょう》であり、文時が奢侈を禁ぜんことを請うの条には、方今高堂連閣、貴賎共に其居を壮《さかん》にし、麗服美衣、貧富同じく其製を寛《ゆたか》
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