たろう。でも公事に急《せ》かれては其《その》儘《まま》には済まされぬので、保胤の面目《めんぼく》無《な》さ、人々の厄介千万さも、御用の進行の大切《だいじ》に押流されて了って人々に世話を焼かれて、御くらの小舎人《こどねり》とかに帯を借りて、辛くも内に入り、公事は勤め果《おお》したということである。
此の物語は疑わしいかどもあるが、まるで無根のことでも無かろうか。何にせよ随分突飛な談《はなし》ではある。しかし大に歪められた談にせよ、此談によって保胤という人の、俗智の乏しく世法に疎かったことは遺憾無く現わされている。これでは如何に才学が有って、善良な人であっても、世間を危気無しには渡って行かれなかったろうと思われるから、まして官界の立身出世などは、東西|相《あい》距《さ》る三十里だったであろう。
斯様《かよう》な人だったとすれば、余程俗才のある細君でも持っていない限りは家の経済などは埒《らち》も無いことだったに相違無い。そこで志山林に在り、居宅を営まず、などと云われれば、大層好いようだが、実は為《しょ》うこと無しの借家住いで、長い間の朝夕《ちょうせき》を上東門の人の家に暮していた。それでも段々年をとっては、せめて起臥《きが》をわが家でしたいのが人の通情であるから、保胤も六条の荒地の廉《やす》いのを購《あがな》って、吾《わ》が住居《すまい》をこしらえた。勿論立派な邸宅というのでは無かったに疑い無いが、流石《さすが》に自分が造り得たのだから、其居宅の記を作って居る、それが今存している池亭記である。記には先ず京都東西の盛衰を叙して、四条以北、乾艮《けんこん》二方の繁栄は到底自分等の居を営むを許さざるを述べ、六条以北、窮僻《きゅうへき》の地に、十有余|畝《ほ》を得たのを幸とし、隆きに就きては小山を為《つく》り、窪きに就きては小池《しょうち》を穿《うが》ち、池の西には小堂を置きて弥陀《みだ》を安んじ、池の東には小閣を開いて書籍《しょじゃく》を納め、池北には低屋を起して妻子を著《つ》けり、と記している。阿弥陀堂を置いたところは、如何にも保胤らしい好みで、いずれささやかな堂ではあろうが、そこへ朝夕の身を運んで、焼香|供華《くげ》、礼拝《らいはい》誦経《じゅきょう》、心しずかに称名《しょうみょう》したろう真面目さ、おとなしさは、何という人柄の善いことだろう。凡《およ》そ屋舎十の四、池
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