野道
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)流鶯《りゅうおう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二三|株《しゅ》は

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「單+展」、第4水準2−4−51]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)一[#(ト)]口
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 流鶯《りゅうおう》啼破《ていは》す一簾《いちれん》の春。書斎に籠《こも》っていても春は分明《ぶんみょう》に人の心の扉《とびら》を排《ひら》いて入込《はいりこ》むほどになった。
 郵便脚夫《ゆうびんきゃくふ》にも燕《つばめ》や蝶《ちょう》に春の来ると同じく春は来たのであろう。郵便という声も陽気に軽やかに、幾個《いくつ》かの郵便物を投込んで、そしてひらりと燕がえしに身を翻《ひるが》えして去った。
 無事平和の春の日に友人の音信《おとずれ》を受取るということは、感じのよい事の一《いつ》である。たとえば、その書簡《てがみ》の封《ふう》を開くと、その中からは意外な悲しいことや煩《わずら》わしいことが現われようとも、それは第二段の事で、差当っては長閑《のどか》な日に友人の手紙、それが心境に投げられた恵光《けいこう》で無いことは無い。
 見るとその三四の郵便物の中の一番上になっている一封の文字は、先輩《せんぱい》の某氏《ぼうし》の筆《ふで》であることは明らかであった。そして名宛《なあて》の左側の、親展とか侍曹《じそう》とか至急とか書くべきところに、閑事《かんじ》という二字が記されてあった。閑事と表記してあるのは、急を要する用事でも何んでも無いから、忙《いそ》がしくなかったら披《ひら》いて読め、他《た》に心の惹《ひ》かれる事でもあったら後廻《あとまわ》しにしてよい、という注意である。ところがその閑事としてあったのが嬉《うれ》しくて、他の郵書よりはまず第一にそれを手にして開読した、さも大至急とでも注記してあったものを受取ったように。
 書中のおもむきは、過日|絮談《じょだん》の折にお話したごとく某々氏|等《ら》と瓢酒《ひょうしゅ》野蔬《やそ》で春郊《しゅんこう》漫歩《まんぽ》の半日を楽《たのし》もうと好晴の日に出掛《でか》ける、貴居《ききょ》はすでに都外故その節《せつ》
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