と思って郊外に出るのであるが、実は沼沢林藪《しょうたくりんそう》の間を徐《おもむ》ろに行くその一歩一歩が何ともいえず楽しく喜ばしくて、歩※[#二の字点、1−2−22]に喜びを味わっているのである。何事でも目的を達し意を遂げるのばかりを楽しいと思う中《うち》は、まだまだ里《さと》の料簡である、その道の山深く入った人の事ではない。当下《とうげ》に即ち了《りょう》するという境界に至って、一石を下す裏に一局の興はあり、一歩を移すところに一日の喜《よろこび》は溢れていると思うようになれば、勝って本《もと》より楽しく、負けてまた楽しく、禽《とり》を獲て本より楽しく、獲ずしてまた楽しいのである。そこで事相《じそう》の成不成、機縁の熟不熟は別として一切が成熟するのである。政元の魔法は成就したか否か知らず、永い月日を倦《う》まず怠らずに、今日も如法に本尊を安置し、法壇を厳飾し、先ず一身の垢《あか》を去り穢《けがれ》を除かんとして浴室に入った。三業純浄《さんごうじゅんじょう》は何の修法にも通有の事である。今は言葉をも発せず、言わんともせず、意を動かしもせず、動かそうともせず、安詳《あんしょう》に身を清くしていた。この間に日影の移る一寸一寸、一分一分、一厘一厘が、政元に取っては皆好ましい魔境の現前であったろう歟《か》、業通自在《ぎょうつうじざい》の世界であったろうか、それは傍《はた》からは解らぬが、何にせよ長い長い月日を倦まずに行じていた人だ、倦まぬだけのものを得ていなくては続かぬ訳だった。
※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]吉尼天は魔だ、仏《ぶつ》だ、魔でない、仏《ほとけ》でない。※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]吉尼天だ。人心を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]尽《かんじん》するものだ。心垢《しんく》を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]尽するものだ。政元はどういう修法をしたか、どういう境地にいたか、更に分らぬ。人はただその魔法を修したるを知るのみであった。
政元は行水《ぎょうずい》を使った。あるべきはずの浴衣《よくい》はなかった。小姓の波※[#二の字点、1−2−22]伯部《ははかべ》は浴衣を取りに行った。月もない二十三日の夕風は颯《さっ》と起った。右筆《ゆうひつ》の戸倉二郎というものは突《つっ》と跳り込んだ。波※[#二の字点、1−2−22]伯部が帰って来た時、戸倉は血刀《ちがたな》を揮《ふる》って切付けた。身をかわして薄手だけで遁《のが》れた。
翌日は戦《たたかい》だった。波※[#二の字点、1−2−22]伯部は戸倉を打って四十二歳で殺された主《しゅ》の仇を復《ふく》したが、管領の細川家はそれからは両派が打ちつ打たれつして、滅茶苦茶になった。
政元は魔法を修していた長い間に何もしなかったのではない。ただ足利将軍の廃立をしたり、諸方の戦をしたりしていた。今は政元の伝を筆にしたのではない。
政元より後に飯綱の法を修した人には面白い人がある。それは政元よりも遥《はるか》に立派な人である。
関白、内大臣、藤原氏の氏《うじ》の長者、従《じゅ》一位、こういう人が飯綱の法を修したのである。太政大臣|公相《きみすけ》は外法のために生首《なまくび》を取られたが、この人は天文から文禄へかけての恐ろしい世に何の不幸にも遭わないで、無事に九十歳の長寿を得て、めでたく終ったのである。それは名高い関白|兼実《かねざね》の後の九条|植通《たねみち》、玖山公《きゅうざんこう》といわれた人である。
植通公の若い時は天下乱麻の如くであった。知行も絶え絶えで、如何に高貴の身分家柄でも生活さえ困難であった。織田信長より前は、禁庭《きんてい》御所得はどの位であったと思う。或《ある》記によればおよそ三千石ほどだったというのである。如何に簡素清冷に御暮しになったとて、三千石ではどうなるものでもない。ましてお公卿《くげ》様などは、それはそれは甚だ窘乏《きんぼう》に陥っておられたものだろう。それでその頃は立派な家柄の人※[#二の字点、1−2−22]が、四方へ漂泊して、豪富の武家たちに身を寄せておられたことが、雑史野乗《ざっしやじょう》にややもすれば散見する。植通も泉州の堺、――これは富商のいた処である、あるいはまた西方諸国に流浪し、聟《むこ》の十川《そごう》(十川|一存《かずまさ》の一系だろうか)を見放つまいとして、※[#「てへん+晉」、第3水準1−84−87]紳《しんしん》の身ながらに笏《しゃく》や筆を擱《お》いて弓箭《ゆみや》鎗《やり》太刀《たち》を取って武勇の沙汰にも及んだということである。
この人が弟子の長頭丸《ちょうずまる》に語った。自分は何事でも思立ったほどならば半途で止まずに、その極処まで究めようと心掛けた。自分は飯綱の法を修行したが、遂に成就したと思ったのは、何処《どこ》に身を置いて寝ても、寝たところの屋《や》の上に夜半頃になればきっと鴟《ふくろう》が来て鳴いたし、また路を行けば行く前には必ず旋風《つじかぜ》が起った。とこういうことを語ったという。鴟は天狗の化するものであるとされていたのである。前に挙げた僧正遍照も天狗の化した鴟を鉄網に籠めて焼いたのである。屋の上で鴟の鳴くのは飯綱の法成就の人に天狗が随身|伺候《しこう》するのである意味だ。旋風の起るのも、目に見えぬ眷属《けんぞく》が擁護して前駆《ぜんく》するからの意味である。飯綱の神は飛狐《ひこ》に騎《の》っている天狗である。
こういう恐ろしい飯綱成就の人であった植通は、実際の世界においてもそれだけの事はあった人である。
織田信長が今川を亡ぼし、佐※[#二の字点、1−2−22]木、浅井、朝倉をやりつけて、三好、松永の輩《はい》を料理し、上洛して、将軍を扶《たす》け、禁闕《きんけつ》に参った際は、天下皆鬼神の如くにこれを畏敬した。特《こと》に癇癖《かんぺき》荒気《あらき》の大将というので、月卿雲客も怖れかつ諂諛《てんゆ》して、あたかも古《いにしえ》の木曾|義仲《よしなか》の都入りに出逢ったようなさまであった。それだのに植通はその信長に対して、立ったままに面とむかって、「上総《かずさ》殿か、入洛《じゅらく》めでたし」といったきりで帰ってしまった。上総殿とは信長がただこれ上総介《かずさのすけ》であったからである。上総介では強かろうが偉かろうが、位官の高い九条植通の前では、そのくらいに扱われたとて仕方のない談《はなし》だ。植通は位官をはずかしめず、かつは名門の威を立てたのである。信長の事だから、是《かく》の如き挨拶で扱われては大むくれにむくれて、「九条殿はおれに礼をいわせに来られた」と腹を立って、ぶつついたということである。信長の方では、天下を掃清《そうせい》したのである、九条殿に礼をいわせる位の気でいたろう。が、これはさすがに飯綱の法の成就している人だけに、植通の方が天狗様のように鼻が高かった。公卿にも一人くらいはこういう毅然たる人があって宜《よ》かったのである。
木下秀吉が明智を亡ぼし、信長の後を襲《つ》いで天下を処理した時の勢《いきおい》も万人の耳目を聳動《しょうどう》したものであった。秀吉は当時こういうことをいい出した。自分は天の冥加《みょうが》に叶って今かく貴《とうと》い身にはなったが、氏も素性もないものである、草刈りが成上ったものであるから、古《いにしえ》の鎌子《かまこ》の大臣《おとど》の御名《おんな》を縁《よすが》にして藤原氏になりたいものだ。というのは関白になろうの下ごころだった。すると秀吉のその時の素ばらしい威勢だったから、宜しゅうござろう、いと易《やす》い事だというので、近衛竜山公《このえりゅうざんこう》がその取計《とりはから》いをしようとした。その時にこの植通公が、「いや、いや、五|摂家《せっけ》に甲乙はないようなれど、氏の長者はわが家である、近衛殿の御儘《おんまま》にはなるべきでない」と咎《とが》めた。異論のあるのに無理を通すようなことは秀吉は敢《あえ》てせぬところである。しかも当時の博識で、人の尊む植通の言であったから、秀吉は徳善院玄以《とくぜんいんげんい》に命じて、九条近衛両家の議を大徳寺に聞かせた。両家は各※[#二の字点、1−2−22]固くその議を執ったが、植通の言の方が根拠があって強かった。そうするとさすがに秀吉だ、「さようにむずかしい藤原氏の蔓《つる》となり葉となろうよりも、ただ新しく今までになき氏《うじ》になろうまでじゃ」といった。そこで菊亭《きくてい》殿が姓氏録を検《あらた》めて、はじめて豊臣秀吉となった。
これも植通は宜《よ》かった。信長秀吉の鼻の頭をちょっと弾いたところ、お公卿様にもこういう人の一人ぐらいあった方が慥《たしか》に好かった。秀吉が藤原氏にならなかったのも勿論好かった。このところ両天狗大出来大出来。
秀吉は遂に関白になった。ついで秀次《ひでつぐ》も関白になった。飯綱成就の植通は毎※[#二の字点、1−2−22]言った。「関白になって、神罰を受けように」と言った。果して秀次関白が罪を得るに及んで、それに坐して近衛殿は九州の坊《ぼう》の津《つ》へ流され、菊亭殿は信濃へ流され、その女《むすめ》の一台《いちだい》殿は車にて渡された。恐ろしいことだ、飯綱成就の人の言葉には目に見えぬ権威があった。
和歌は勿論堪能の人であった。連歌はさまで心を入れたでもなかろうが、それでも緒余《しょよ》としてその道を得ていた。法橋紹巴《ほっきょうしょうは》は当時の連歌の大宗匠であった。しかし長頭丸が植通公を訪《と》うた時、この頃何かの世間話があったかと尋ねられたのに答えて、「聚落《じゅらく》の安芸《あき》の毛利《もうり》殿の亭《ちん》にて連歌の折、庭の紅梅につけて、梅の花|神代《かみよ》もきかぬ色香かな、と紹巴法橋がいたされたのを人※[#二の字点、1−2−22]褒め申す」と答えたのにつけて、神代もきかぬとの業平《なりひら》の歌は、竜田川《たつたがわ》に水の紅《くれない》にくくることは奇特不思議の多い神代にも聞かずと精を入れたのであるのに、珍らしからぬ梅を取出して神代も聞かぬというべきいわれはない。昔伊勢の国で冬咲の桜を見て夢庵《むあん》が、冬咲くは神代も聞かぬ桜かな、と作ったのは、伊勢であったればこそで、かように本歌を取るが本意である、毛利|大膳《だいぜん》が神主《かんぬし》ではあるまいし、と笑ったということである。紹巴もこの人には敵《かな》わない。光秀は紹巴に「天《あめ》が下しる五月《さつき》哉《かな》」の「し」の字は「な」の字|歟《か》といわれたが、紹巴はまたこの公には敵わない。毛利が神主にもあらばこその一句は恐ろしい。
紹巴は時※[#二の字点、1−2−22]この公を訪《と》うた。或時参って、紹巴が「近頃何を御覧なされまする」と問うた。すると、公は他に言葉もなくて徐《おもむ》ろに「源氏」とただ一言。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりましょうか」と問うた。答えは簡単だった。「源氏」。それきりだった。また紹巴が「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。
三度が三度同じ返答で、紹巴は「ウヘー」と引退《ひきさが》った。なるほどこの公の歩くさきには旋風《つじかぜ》が立っているばかりではなく、言葉の前にも旋風が立っていた。
源氏物語にも言辞事物《げんじじぶつ》の注のほかに深き観念あるを説いて止観《しかん》の説という。この公の源語の注の孟津抄《もうしんしょう》は、法華経の釈に玄義、文句《もんぐ》とありて扨《さて》、止観十巻のあるが如く、源氏についての止観の意にて説かれたということである。非常な源氏の愛読者で、「これを見れば延喜《えんぎ》の御代《みよ》に住む心地する」といって、明暮《あけくれ》に源氏を見ていたというが、きまりきった源氏を六十年もそのように見ていて倦《う》まなかったところは、政元が二十年も飯綱修法を行じていたところと同じようでおもしろい。
長頭丸が時※[#二の字点、1−2−22]|教《
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