荼枳尼も大日、他の諸天も大日、玄奥《げんおう》秘密の意義理趣を談ずる上からは、甲乙の分け隔てはなくなる故にとかくを言うのも愚なことであるが、先ず荼枳尼として置こう。荼枳尼天の形相、真言等をここに記するも益無きことであるし、かつまた自分が飯綱二十法を心得ているわけでもないから、飯綱修法に関することは書かぬが、やはり他の天部《てんぶ》夜叉部《やしゃぶ》等の修法の如くに、相伝を得て、次第により如法《にょほう》に修するものであろう。東京近くでは武州|高雄山《たかおさん》からも、今は知らぬが以前は荼枳尼の影像を与えたものである。諸国に荼枳尼天を祭ったところは少からずあるが、今その法を修する者はあるまい。まして魔法の邪法のといわれるものであるから、真に修法《じゅほう》する者は全くあるまいが、修法の事は、その利益功能のある状態や理合《りごう》を語ろうとしても、全然そういうことを知らぬ人に理解せしむることは先ず不可能であるから、まして批評を交えてなど語れるものではない。管狐《くだぎつね》という鼠ほどの小さな狐を山より受取って来て、これを使うなどということは世俗のややもすれば伝えることであるが、自分は知らぬ。天狗も荼枳尼には連なることで、愛宕にも太郎坊があれば、飯綱にも天狗嶽という魔所があり、餓鬼曼陀羅《がきまんだら》のような荼枳尼曼陀羅には天狗もあり、また荼吉尼天その物を狐に乗っている天狗だと心得ている人もある。むかし僧正|遍照《へんじょう》は天狗を金網の中へ籠めて焼いて灰にしたというが、我らにはなかなかそのような道力はないから、平生いろいろな天狗に脅《おびやか》されて弱っている、俳句天狗や歌天狗、書天狗画天狗|浄瑠璃《じょうるり》天狗、その上に本物の天狗に出られて叱られでもしたら堪《たま》らないから筆を擱《お》く。
我邦で魔法といえば先ず飯綱の法、荼吉尼の法ということになるが、それならどんな人が上に説いた人のほかに魔法を修したか。志一や高天は言うに足らない、山伏や坊さんは職分的であるから興味もない。誰かないか。魔法修行のアマチュアは。
ある。先ず第一標本には細川|政元《まさもと》を出そう。
彼《か》の応仁の大乱は人も知る通り細川|勝元《かつもと》と山名宗全《やまなそうぜん》とが天下を半分ずつに分けて取って争ったから起ったのだが、その勝元の子が即ち政元だ。家柄ではあり、親父の余威はあり、二度も京都|管領《かんりょう》になったその政元が魔法修行者だった。政元は生れない前から魔法に縁があったのだから仕方がない。はじめ勝元は彼《あれ》だけの地位に立っていても、不幸にして子がなかった。そこでその頃の人だから、神仏に祈願を籠めたのであるが、観音《かんのん》か何かに祈るというなら普門品《ふもんぼん》の誓《ちかい》によって好い子を授けられそうなところを、勝元は妙なところへ願を掛けた。何に掛けたか。武将だから毘沙門《びしゃもん》とか、八幡《はちまん》とかへ願えばまだしも宜《い》いものを、愛宕山大権現へ願った。勝元は宗全とは異って、人あたりの柔らかな、分別も道理はずれをせぬ、感情も細かに、智慧も行届く人であったが、さすがに大乱の片棒をかついだ人だけに、やはり※[#「酉+嚴」、142−5]《きぶ》いところがあったと見えて、愛宕山権現に願掛けした。愛宕山は七高山の一として修験の大修行場で、本尊は雷神《らいじん》にせよ素盞嗚尊《すさのおのみこと》にせよ破旡神《はむじん》にせよ、いずれも暴《あら》い神で、この頃は既に勝軍地蔵を本宮とし、奥の院は太郎坊、天狗様の拠所《よりどころ》であった。武家の尊崇によって愛宕は最も盛大な時であったろうが、こういう訳で生れた政元は、生れぬさきより恐ろしいものと因縁があったのである。
政元は幼時からこの訳で愛宕を尊崇した。最も愛宕尊崇は一体の世の風であったろうが、自分の特別因縁で特別尊崇をした。数※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》社参する中《うち》に、修験者らから神怪|幻詭《げんき》の偉い談《だん》などを聞かされて、身に浸みたのであろう、長ずるに及んで何不自由なき大名の身でありながら、葷腥《くんせい》を遠ざけて滋味《じみ》を食《くら》わず、身を持する謹厳で、超人間の境界を得たい望《のぞみ》に現世の欲楽を取ることを敢《あえ》てしなかった。ここは政元も偉かった。憾《うら》むらくは良い師を得なかったようである。婦人に接しない。これも差支《さしつかえ》ないことであった。自由の利く者は誰しも享楽主義になりたがるこの不穏な世に大自由の出来る身を以て、淫欲までを禁遏《きんあつ》したのは恐ろしい信仰心の凝固《こりかたま》りであった。そして畏るべき鉄のような厳冷な態度で修法をはじめた。勿論生やさしい料簡|方《がた》で出来る事ではない。
政元は堅固に厳粛に月日を過した。二十歳、三十歳、四十近くなった。舟岡記《ふなおかき》にその有様を記してある。曰く、「京管領細川右京太夫政元は四十歳の比《ころ》まで女人禁制にて、魔法飯綱の法愛宕の法を行ひ、さながら出家の如く、山伏の如し、或時は経を読み、陀羅尼《だらに》をへんしければ、見る人身の毛もよだちける。されば御家《おいえ》相続の子無くして、御内《みうち》、外様《とざま》の面※[#二の字点、1−2−22]、色※[#二の字点、1−2−22]|諫《いさ》め申しける。」なるほどこういう状態では、当人は宜《よ》いが、周囲の者は畏れたろう。その冷い、しゃちこばった顔付が見えるようだ。
で、諸大名ら人※[#二の字点、1−2−22]の執成《とりな》しで、将軍|義澄《よしずみ》の叔母の縁づいている太政大臣九条|政基《まさもと》の子を養子に貰って元服させ、将軍が烏帽子親《えぼしおや》になって、その名の一字を受けさせ、源九郎|澄之《すみゆき》とならせた。
澄之は出た家も好し、上品の若者だったから、人※[#二の字点、1−2−22]も好い若君と喜び、丹波《たんば》の国をこの人に進ずることにしたので、澄之はそこで入都した。
ところが政元は病気を時※[#二の字点、1−2−22]したので、この前の病気の時、政元一家の内※[#二の字点、1−2−22]《うちうち》の人※[#二の字点、1−2−22]だけで相談して、阿波《あわ》の守護細川|慈雲院《じうんいん》の孫、細川|讃岐守之勝《さぬきのかみゆきかつ》の子息が器量骨柄も宜しいというので、摂州《せっしゅう》の守護代|薬師寺与一《やくしじよいち》を使者にして養子にする契約をしたのであった。
この養子に契約した者も将軍より一字を貰って、細川六郎|澄元《すみもと》と名乗った。つまり澄元の方は内※[#二の字点、1−2−22]の者が約束した養子で、澄之の方は立派な人※[#二の字点、1−2−22]の口入《くちいれ》で出来た養子であったのである。これには種※[#二の字点、1−2−22]の説があって、前後が上記と反対しているのもある。
澄元契約に使者に行った細川の被官の薬師寺与一というのは、一文不通《いちもんふつう》の者であったが、天性正直で、弟の与二《よじ》とともに無双の勇者で、淀《よど》の城に住し、今までも度※[#二の字点、1−2−22]《たびたび》手柄を立てた者なので、細川一家では賞美していた男であった。澄元のあるところへ、澄之という者が太政大臣家から養子に来られたので、契約の使者になった薬師寺与一は阿波の細川家へ対して、また澄元に対して困った立場になった。そこで根が律義勇猛のみで、心は狭く分別は足らなかった与一は赫《かっ》としたのである。この頃主人政元はというと、段※[#二の字点、1−2−22]魔法に凝《こ》り募《つの》って、種※[#二の字点、1−2−22]の不思議を現わし、空中へ飛上ったり空中へ立ったりし、喜怒も常人とは異り、分らぬことなど言う折もあった。空中へ上《のぼ》るのは西洋の魔法使もする事で、それだけ永い間修業したのだから、その位の事は出来たことと見て置こう。感情が測られず、超常的言語など発するというのは、もともと普通凡庸の世界を出たいというので修業したのだから、修業を積めばそうなるのは当然の道理で、ここが慥《たしか》に魔法の有難いところである。政元からいえば、どうも変だ、少し怪しい、などといっている奴は、何時《いつ》までも雪を白い、烏を黒いと、退屈もせずに同じことを言っている扨※[#二の字点、1−2−22]《さてさて》下らない者どもだ、と見えたに疑《うたがい》ない。が、細川の被官どもは弱っている。そこで与一は赤沢宗益《あかざわそうえき》というものと相談して、この分では仕方がないから、高圧的|強請的《きょうせいてき》に、阿波の六郎澄元殿を取立てて家督にして終《しま》い、政元公を隠居にして魔法三昧でも何でもしてもらおう、と同盟し、与一はその主張を示して淀の城へ籠り、赤沢宗益は兵を率いて伏見《ふしみ》竹田口《たけだぐち》へ強請的に上って来た。
与一の議に多数が同意するではなかった。澄之に意を寄せている者も多かった。何にしろ与一の仕方が少し突飛《とっぴ》だったから、それ下《しも》として上《かみ》を剋《こく》する与一を撃てということになった。与一の弟の与二は大将として淀の城を攻めさせられた。剛勇ではあり、多勢ではあり、案内は熟《よ》く知っていたので、忽《たちまち》に淀の城を攻落《せめおと》し、与二は兄を一元寺《いちげんじ》で詰腹《つめばら》切らせてしまった。その功で与二は兄の跡に代って守護代となった。
阿波の六郎澄元は与一の方から何らかの使者を受取ったのであろう、悠然として上洛した。無人《ぶにん》では叶わぬところだから、六郎の父の讃岐守は、六郎に三好筑前守之長《みよしちくぜんのかみゆきなが》と高畠与三《たかばたけよぞう》の二人を付随《つけしたが》わせた。二人はいずれも武勇の士であった。
与二は政元の下で先度の功に因りて大《おおい》に威を振《ふる》ったが、兄を討ったので世の用いも悪く、三好筑前守はまた六郎の補佐の臣として六郎の権威と利益とのためには与二の思うがままにもさせず振舞うので、与二は面白くなくなった。
そこで与二は竹田源七《たけだげんしち》、香西又六《こうさいまたろく》などというものと相談して、兄と同じような路をあるこうとした。異なっているところは兄は六郎澄元を立てんとし、自分は源九郎澄之を立てんとするだけであった。とても彼のように魔法修行に凝って、ただ人ならず振舞いたまうようでは、長くこの世にはおわし果つまじきである、六郎殿に御世《みよ》を取られては三好に権を張り威を立てらるるばかりである、是非ないことであるから、政元公に生害《しょうがい》をすすめ、丹波の源九郎殿を以て管領家を相続させ、我※[#二の字点、1−2−22]が天下の権を取ろう、と一決した。
永正《えいしょう》四年六月二十三日だ。政元はそのような事を被官どもが企てているとも知ろうようはない。今日も例の通り厳冷な顔をして魔法修行の日課を如法に果そうとするほかに何の念もない。しかし戦乱の世である。河内《かわち》の高屋《たかや》に叛《そむ》いているものがあるので、それに対して摂州衆、大和衆、それから前に与一に徒党したが降参したので免《ゆる》してやった赤沢宗益の弟|福王寺喜島《ふくおうじきじま》源左衛門和田源四郎を差向けてある。また丹波の謀叛対治のために赤沢宗益を指向《さしむ》けてある。それらの者はこの六月の末という暑気に重い甲冑を着て、矢叫《やさけび》、太刀音《たちおと》、陣鐘《じんがね》、太鼓の修羅《しゅら》の衢《ちまた》に汗を流し血を流して、追いつ返しつしているのであった。政元はそれらの上に念を馳せるでもない、ただもう行法が楽しいのである。碁を打つ者は五|目《もく》勝った十目勝ったというその時の心持を楽んで勝とうと思って打つには相違ないが、彼一石我一石を下《くだ》すその一石一石の間を楽む、イヤそのただ一石を下すその一石を下すのが楽しいのである。鷹を放つ者は鶴を獲たり鴻《こう》を獲たりして喜ぼう
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