謙信が武勇優れるに似たり、と笑ったというが、どうして信玄は飯綱どころか、禅宗でも、天台宗でも、一向宗までも呑吐《どんと》して、諸国への使《つかい》は一向坊主にさせているところなど、また信玄一流の大きさで、飯綱の法を行《おこな》ったかどうか知らぬが、甲州|八代《やつしろ》郡|末木《すえき》村|慈眼寺《じげんじ》に、同寺から高野《こうや》へ送った武田家品物の目録書の稿の中に、飯縄本尊|并《ならび》に法次第一冊信玄公|御随身《みずいしん》とあることが甲斐国志《かいこくし》巻七十六に見えているから、飯綱の法も行ったか知れぬ。
勝軍地蔵か※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]祇尼天か、飯綱の本体はいずれでも宜《よ》いが、※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]祇尼は古くからいい伝えていること、勝軍地蔵は新らしく出来たもの、だきには胎蔵界曼陀羅《たいぞうかいまんだら》の外金剛部院《げこんごうぶいん》の一尊であり、勝軍地蔵はただこれ地蔵の一変身である。大日経《だいにちきょう》巻第二に荼枳尼《だきに》は見えており、儀軌真言《ぎきしんごん》なども伝来の古いものである。もし密教の大道理からいえば、
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