巻九の歌によっても知られるが、後にも「琴の板」というものが杉で造られてあって、神教《しんきょう》をこれによりて受けるべくしたものである。これらは魔法というべきではなく、神教を精誠《せいせい》によって仰ぐのであるから、魔法としては論ぜざるべきことである。仏教|巫徒《ふと》の「よりまし」「よりき」の事と少し似てはいるであろう。
仏教が渡来するに及んで咒詛《じゅそ》の事など起ったろうが、仏教ぎらいの守屋《もりや》も「さま/″\のまじわざものをしき」と水鏡《みずかがみ》にはあるから、相手が外国流で己《おのれ》を衛《まも》り人を攻むれば、こちらも自国流の咒詛をしたのかも知れぬ。しかし水鏡は信憑すべき書ではない。
役《えん》の小角《しょうかく》が出るに及んで、大分魔法使いらしい魔法使いが出て来たわけになる。葛城《かつらぎ》の神を駆使したり、前鬼《ぜんき》後鬼《ごき》を従えたり、伊豆の大島から富士へ飛んだり、末には母を銕鉢《てつばち》へ入れて外国へ行ったなどということであるが、余りあてになろう訳もない。小角は孔雀明王咒《くじゃくみょうおうじゅ》を持してそういうようになったというが、なるほど孔雀明王などのような豪気なものを祈って修法成就したら神変奇特も出来る訳か知らぬけれど、小角の時はまだ孔雀明王についての何もが唐《とう》で出ていなかったように思われる。ちょっと調べてもらいたい。
白山《はくさん》の泰澄《たいちょう》や臥行者《がぎょうしゃ》も立派な魔法使らしい。海上の船から山中の庵《いおり》へ米苞《こめづと》が連続して空中を飛んで行ってしまったり、紫宸殿《ししいでん》を御手製《おてせい》地震でゆらゆらとさせて月卿雲客《げっけいうんかく》を驚かしたりなんどしたというのは活動写真映画として実に面白いが、元亨釈書《げんこうしゃくしょ》などに出て来る景気の好い訳《わけ》は、大衆文芸ではない大衆宗教で、ハハア、面白いと聞いて置くに適している。
久米《くめ》の仙人に至って、映画もニコニコものを出すに至った。仙人は建築が上手で、弘法大師《こうぼうたいし》なども初《はじめ》は久米様のいた寺で勉強した位である、なかなかの魔法使いだったから、雲ぐらいには乗ったろうが、洗濯女の方が魔法が一段上だったので、負けて落第生となったなどは、愛嬌と涎《よだれ》と一緒に滴《したた》るばかりで実に好人物だ。
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