って来た時、戸倉は血刀《ちがたな》を揮《ふる》って切付けた。身をかわして薄手だけで遁《のが》れた。
翌日は戦《たたかい》だった。波※[#二の字点、1−2−22]伯部は戸倉を打って四十二歳で殺された主《しゅ》の仇を復《ふく》したが、管領の細川家はそれからは両派が打ちつ打たれつして、滅茶苦茶になった。
政元は魔法を修していた長い間に何もしなかったのではない。ただ足利将軍の廃立をしたり、諸方の戦をしたりしていた。今は政元の伝を筆にしたのではない。
政元より後に飯綱の法を修した人には面白い人がある。それは政元よりも遥《はるか》に立派な人である。
関白、内大臣、藤原氏の氏《うじ》の長者、従《じゅ》一位、こういう人が飯綱の法を修したのである。太政大臣|公相《きみすけ》は外法のために生首《なまくび》を取られたが、この人は天文から文禄へかけての恐ろしい世に何の不幸にも遭わないで、無事に九十歳の長寿を得て、めでたく終ったのである。それは名高い関白|兼実《かねざね》の後の九条|植通《たねみち》、玖山公《きゅうざんこう》といわれた人である。
植通公の若い時は天下乱麻の如くであった。知行も絶え絶えで、如何に高貴の身分家柄でも生活さえ困難であった。織田信長より前は、禁庭《きんてい》御所得はどの位であったと思う。或《ある》記によればおよそ三千石ほどだったというのである。如何に簡素清冷に御暮しになったとて、三千石ではどうなるものでもない。ましてお公卿《くげ》様などは、それはそれは甚だ窘乏《きんぼう》に陥っておられたものだろう。それでその頃は立派な家柄の人※[#二の字点、1−2−22]が、四方へ漂泊して、豪富の武家たちに身を寄せておられたことが、雑史野乗《ざっしやじょう》にややもすれば散見する。植通も泉州の堺、――これは富商のいた処である、あるいはまた西方諸国に流浪し、聟《むこ》の十川《そごう》(十川|一存《かずまさ》の一系だろうか)を見放つまいとして、※[#「てへん+晉」、第3水準1−84−87]紳《しんしん》の身ながらに笏《しゃく》や筆を擱《お》いて弓箭《ゆみや》鎗《やり》太刀《たち》を取って武勇の沙汰にも及んだということである。
この人が弟子の長頭丸《ちょうずまる》に語った。自分は何事でも思立ったほどならば半途で止まずに、その極処まで究めようと心掛けた。自分は飯綱の法を修行したが
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