天を祭るとせられたが、山では勝軍地蔵《しょうぐんじぞう》を本宮とするとしていた。勝軍地蔵は日本製の地蔵で、身に甲冑を着け、軍馬に跨《またが》って、そして錫杖《しゃくじょう》と宝珠《ほうじゅ》とを持ち、後光輪《ごこうりん》を戴いているものである。如何にも日本武士的、鎌倉もしくは足利期的の仏であるが、地蔵十輪経《じぞうじゅうりんきょう》に、この菩薩はあるいは阿索洛《アシュラ》身を現わすとあるから、甲《かぶと》を被《こうむ》り馬に乗って、甘くない顔をしていられても不思議はないのである。山城《やましろ》の愛宕《あたご》権現も勝軍地蔵を奉じたところで、それにつづいて太郎坊大天狗などという恐ろしい者で名高い。勝軍地蔵はいつでも武運を守り、福徳を授けて下さるという信仰の対的《たいてき》である。明智光秀も信長を殺す前には愛宕へ詣《まい》って、そして「時は今|天《あめ》が下知る五月《さつき》かな」というを発句に連歌を奉っている位だ。飯綱山も愛宕山に負けはしない。武田信玄は飯綱山に祈願をさせている。上杉謙信がそれを見て嘲笑《あざわら》って、信玄、弓箭《ゆみや》では意をば得ぬより権現の力を藉《か》ろうとや、謙信が武勇優れるに似たり、と笑ったというが、どうして信玄は飯綱どころか、禅宗でも、天台宗でも、一向宗までも呑吐《どんと》して、諸国への使《つかい》は一向坊主にさせているところなど、また信玄一流の大きさで、飯綱の法を行《おこな》ったかどうか知らぬが、甲州|八代《やつしろ》郡|末木《すえき》村|慈眼寺《じげんじ》に、同寺から高野《こうや》へ送った武田家品物の目録書の稿の中に、飯縄本尊|并《ならび》に法次第一冊信玄公|御随身《みずいしん》とあることが甲斐国志《かいこくし》巻七十六に見えているから、飯綱の法も行ったか知れぬ。
勝軍地蔵か※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]祇尼天か、飯綱の本体はいずれでも宜《よ》いが、※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]祇尼は古くからいい伝えていること、勝軍地蔵は新らしく出来たもの、だきには胎蔵界曼陀羅《たいぞうかいまんだら》の外金剛部院《げこんごうぶいん》の一尊であり、勝軍地蔵はただこれ地蔵の一変身である。大日経《だいにちきょう》巻第二に荼枳尼《だきに》は見えており、儀軌真言《ぎきしんごん》なども伝来の古いものである。もし密教の大道理からいえば、
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