》に出ている。これは元来が動物質だから食えるものである。で、飯綱は仮名ちがいの擬字《ぎじ》で、これがあるからの飯沙山《いいすなやま》である。そういうちょっと異なものがあったから、古く保食神即ち稲荷なども勧請《かんじょう》してあったかも知れぬ。ところが荼吉尼法は著聞集に、知定院殿《ちていいんでん》が大権坊《だいごんぼう》という奇験の僧によりて修したところ、夢中に狐の生尾《せいび》を得たり、なんどとある通り、古くから行われていたし、稲荷と荼吉尼は狐によって混雑してしまっていた。文徳実録《もんとくじつろく》に見える席田郡《むしろだごおり》の妖巫《ようふ》の、その霊|転行《てんこう》して心を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《くら》い、一種|滋蔓《じまん》して、民《たみ》毒害を被る、というのも※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]心の二字が※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]祇尼法の如く思えるところから考えると、なかなか古いもので、今昔物語に外術《げじゅつ》とあるものもやはり外法と同じく※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]祇尼法らしいから、随分と索隠行怪《さくいんこうかい》の徒には輾転《てんてん》伝受されていたのだろうと思われる。伝説に依ると、水内郡《みのちごおり》荻原《おぎわら》に、伊藤|豊前守忠縄《ぶぜんのかみただつな》というものがあって、後堀河天皇の天福元年(四条天皇の元年で、北条|泰時《やすとき》執権の時)にこの山へ上って穀食を絶ち、何の神か不明だがその神意を受けて祈願を凝《こ》らしたとある。穀食を絶っても食える土があったから辛防《しんぼう》出来たろう。それから遂に大自在力を得て、凡《およ》そ二百年余も生きた後、応永七年足利義持の時に死したということだ。これが飯綱の法のはじまりで、それからその子|盛縄《もりつな》も同じく法を得て奇験を現わし、飯綱の千日家《せんにちけ》というものは、この父子より成立ち、飯綱権現の別当ともいうべきものになったのであり、徳川初期には百石の御朱印を受けていたものである。
今は飯綱《いいづな》神社で、式内《しきない》の水内郡《みのちぐん》の皇足穂命《すめたりほのみこと》神社である。昔は飯綱《いづな》大明神、または飯綱権現と称し、先ず密教修験的の霊区であった。他からは多くは※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]祇尼
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