にて、某《それがし》のひじりとかや、東山のほとりなりける人取りてけるとて、後《のち》に沙汰がましく聞えき」という事があって、まだしゃれ頭にならない生頭を取られたというのである。して見ればこの人の薨去《こうきょ》は文永四年で北条|時宗《ときむね》執権の頃であるから、その時分「げほう」と称する者があって、げほうといえば直《ただち》に世人がどういうものだと解することが出来るほど一般に知られていたのである。内典《ないてん》外典《げてん》というが如く、げほうは外法《げほう》で、外道《げどう》というが如く仏法でない法の義であろうか。何にせよ大変なことで、外法は魔法たること分明だ。その後になっても外法頭《げほうあたま》という語はあって、福禄寿《ふくろくじゅ》のような頭を、今でも多分京阪地方では外法頭というだろう、東京にも明治頃までは、下駄の形の称に外法というのがあった。竹斎《ちくさい》だか何だったか徳川初期の草子《そうし》にも外法あたまというはあり、「外法の下り坂」という奇抜な諺《ことわざ》もあるが、福禄寿のような頭では下り坂は妙に早かろう。
 流布本太平記巻三十六、細川|相模守清氏《さがみのかみきようじ》叛逆の事を記した段に、「外法成就の志一上人《しいつしょうにん》鎌倉より上《のぼ》つて」云※[#二の字点、1−2−22]とある。神田本同書には、「此《この》志一上人はもとより邪天道法成就の人なる上、近頃鎌倉にて諸人|奇特《きとく》の思《おもい》をなし、帰依《きえ》浅からざる上、畠山入道《はたけやまにゅうどう》諸事深く信仰|頼入《たのみい》りて、関東にても不思議ども現じける人なり」とある。清氏はこの志一を頼んで、※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]祇尼天《だぎにてん》に足利義詮《あしかがよしあきら》を祈殺《いのりころ》そうとの願状《がんじょう》を奉ったのである。さすれば「邪天道法成就」というのは、※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]祇尼天を祈る道法成就ということで、志一という僧はその法で「ふしぎども現じける」ものである。これで当時外法と呼んだものは※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]祇尼天法であることが知れる。けだし外法は平安朝頃から出て来たらしい。
 狐つかいは同じく※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]祇尼法であるか知れぬ。しかし狐を霊物とするのは支那にも
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