貧乏
幸田露伴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)詰《つま》らねえ
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|升《しょう》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]《よ》り
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その一
「アア詰《つま》らねえ、こう何もかもぐりはまになった日にゃあ、おれほどのものでもどうもならねえッ。いめえましい、酒でも喫《くら》ってやれか。オイ、おとま、一|升《しょう》ばかり取って来な。コウト、もう煮奴《にやっこ》も悪くねえ時候だ、刷毛《はけ》ついでに豆腐《とうふ》でもたんと買え、田圃《たんぼ》の朝というつもりで堪忍《かんにん》をしておいてやらあ。ナンデエ、そんな面《つら》あすることはねえ、女《おんな》ッ振《ぷり》が下がらあな。
「おふざけでないよ、寝《ね》ているかとおもえば眼《め》が覚《さ》めていて、出しぬけに床《とこ》ん中からお酒を買えたあ何の事《こっ》たえ。そして何時だと思っておいでだ、もう九時だよ、日があたってるのに寝ているものがあるもんかね。チョッ不景気な、病人くさいよ、眼がさめたら飛び起きるがいいわさ。ヨウ、起きておしまいてえば。
「厭《や》あだあ、母《かあ》ちゃん、お眼覚《めざ》が無いじゃあ坊《ぼう》は厭あだあ。アハハハハ。
「ツ、いい虫だっちゃあない、呆《あき》れっちまうよ。さあさあお起《おき》ッたらお起きナ、起きないと転がし出すよ。
と夜具を奪《と》りにかかる女房《にょうぼう》は、身幹《せい》の少し高過ぎると、眼の廻《まわ》りの薄黒《うすぐろ》く顔の色一体に冴《さ》えぬとは難なれど、面長《おもなが》にて眼鼻立《めはなだち》あしからず、粧《つく》り立てなば粋《いき》に見ゆべき三十前のまんざらでなき女なり。
今まで機嫌《きげん》よかりし亭主《ていしゅ》は忽然《こつぜん》として腹立声に、
「よせエ、この阿魔《あま》あ、おれが勝手だい。
と云《い》いながら裾《すそ》の方《かた》に立寄れる女を蹴《け》つけんと、掻巻《かいまき》ながらに足をばたばたさす。女房は驚《おどろ》きてソッとそのまま立離《たちはな》れながら、
「オヤおっかない狂人《きちがい》だ。
と別に腹も立てず、少し物を考う。
「あたりめえよ、狂人にでもならなくって詰るもんか。アハハハハ、銭《ぜに》が無い時あ狂人が洒落《しゃれ》てらあナ。
「お銭《あし》が有ったらエ。
「フン、有情漢《いろおとこ》よ、オイ悪かあ無かったろう。
「いやだネ知らないよ。
「コン畜生《ちくしょう》め、惚《ほ》れやがった癖《くせ》に、フフフフフ。
「お前少しどうかおしかえ、変だよ。
「何が。
「調子が。
「飛んだお師匠様《ししょうさん》だ、笑わせやがる。ハハハハ、まあ、いいから買って来な、一人飲みあしめえし。
「だって、無いものを。
「何だと。
「貸はしないし、ちっとも無いんだものを。
「智慧《ちえ》がか。
「いいえさ。
「べらぼうめえ、無《ね》えものは無えやナ、おれの脱穀《ぬけがら》を持って行きゃ五六十銭は遣《よこ》すだろう。
「ホホホホ、いい気ぜんだよ、それでいつまでも潜《もぐ》っているのかい。
「ハハハハ、お手の筋だ。
「だって、後《あと》はどうするエ。一張羅《いっちょうら》を無くしては仕様がないじゃあないか、エ、後ですぐ困るじゃ無いか。
「案じなさんな、銭があらあ。
「妙《みょう》だねえ、無いから帯や衣類《きもの》を飲もうというのに、その後になって何が有るエ。
「しみッたれるなイ、裸百貫《はだかひゃっかん》男|一匹《いっぴき》だ。
「ホホホホホ、大きな声をお出しでない、隣家《おとなり》の児《こ》が起きると内儀《おかみさん》の内職の邪魔《じゃま》になるわネ。そんならいいよ買って来るから。
と女房は台所へ出て、まだ新しい味噌漉《みそこし》を手にし、外へ出でんとす。
「オイオイ此品《これ》でも持って行かねえでどうするつもりだ。
と呼びかけて亭主のいうに、ちょっと振《ふ》りかえって嬉《うれ》しそうに莞爾《にっこり》笑い、
「いいよ、黙《だま》って待っておいで。
たちまち姿《すがた》は見えずなって、四五|軒《けん》先の鍛冶屋《かじや》が鎚《つち》の音ばかりトンケンコン、トンケンコンと残る。亭主はちょっと考えしが、
「ハテナ、近所の奴《やつ》に貸た銭でもあるかしらん。知人《なじみ》も無さそうだし、貸す風でもねえが。
と独語《ひとりご》つところへ、うッそりと来かかる四十ばかりの男、薄汚《うすぎたな》い衣服《なり》、髪垢《ふけ》だらけの頭したるが、裏口から覗《のぞ》きこみながら、異《おつ》に潰《つぶ》れた声で呼《よ》ぶ。
「大将、風邪《かぜ》でも引かしッたか。
両手で頬杖《ほおづえ》しながら匍匐臥《はらばいね》にまだ臥《ふし》たる主人《あるじ》、懶惰《ぶしょう》にも眼ばかり動かして一《ひ》ト眼《め》見しが、身体《からだ》はなお毫《すこし》も動かさず、
「日瓢《にっぴょう》さんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。
とは云いたれど上りてもらいたくも無さそうな顔なり。
「ハハハ、運を寝て待つつもりかネ、上ってもご馳走《ちそう》は無さそうだ。
「違《ちげ》えねえ、煙草《たばこ》の火ぐらいなもんだ。
「ハハハ、これではお互《たがい》に浮ばれない。時に明日《あす》の晩からは柳原《やなぎはら》の例のところに○州屋《まるしゅうや》の乾分《こぶん》の、ええと、誰《だれ》とやらの手で始まるそうだ、菓子屋の源《げん》に昨日《きのう》そう聞いたが一緒《いっしょ》に行きなさらぬか。
「往《い》かれたら往こうわ、ムムそれを云いに来たのか。
「そうさ、お互に少し中《あた》り屋《や》さんにならねばならん。
「誰だってそうおもわねえものは無《ね》えんだ、御祖師様《おそしさま》でも頼みなせえ。
「からかいなさるな、罰《ばち》が当っているほうだ。
「ハハハ、からかいなさんなと云ってもらいてえ、どうも言語《ものいい》の叮嚀《ていねい》な中《うち》がいい。
「ガリスの果《はて》と知れるかノ。
「オヤ、気障《きざ》な言語《ふちょう》を知ってるな、大笑いだ。しかし、知れるかノというノの字で打壊《ぶちこわ》しだあナ、チョタのガリスのおん果《はて》とは誰が眼にも見えなくってどうするものか。
「チョタとは何だ、田舎漢《いなかもの》のことかネ。
「ムム。
「忌々《いまいま》しい、そう思わるるが厭《いや》だによって、大分気をつけているが地金《じがね》はとかく出たがるものだナ。
「ハハハ、厭だによってか、ソレそれがもういけねえ、ハハハ詰らねえ色気《いろけ》を出したもんだ。
「イヤ居《お》れば居るだけ笑われる、明日《あす》来てみよう、行かれたら一緒に行きなさい。
と立帰り行くを見送って、
「おえねえ頓痴奇《とんちき》だ、坊主《ぼうず》ッ返《けえ》りの田舎漢《いなかもの》の癖に相場《そうば》も天賽《てんさい》も気が強《つえ》え、あれでもやっぱり取られるつもりじゃあねえ中《うち》が可笑《おかし》い。ハハハ、いい業《ごう》ざらしだ。
と一人《ひとり》笑うところへ、女房おとまぶらりッと帰り来る。見れば酒も持たず豆腐も持たず。
「オイどうしたんだ。
「どうもしないよ。
やはり寝ながらじろりッと見て、
「気のぬけたラムネのように異《おつ》うすますナ、出て行った用はどうしたんだ。
「アイ忘れたよ。
「ふざけやがるなこの婆《ばばあ》。
「邪見《じゃけん》な口のききようだねえ、阿魔だのコン畜生だの婆だのと、れっきとした内室《おかみさん》をつかめえてお慮外《りょがい》だよ、兀《はげ》ちょろ爺《じじい》の蹙足爺《いざりじじい》め。
と少し甘《あま》えて言う。男は年も三十一二、頭髪《かみ》は漆《うるし》のごとく真黒《まっくろ》にて、いやらしく手を入れ油をつけなどしたるにはあらで、短めに苅《か》りたるままなるが人に優《すぐ》れて見|好《よ》きなり。されば兀ちょろ爺と罵《ののし》りたるはわざとになるべく、蹙足爺《いざりじじい》とはいつまでも起き出でぬ故なるべし。男は罵られても激《はげ》しくは怒《おこ》らず、かえって茶にした風にて、
「やかましいやい、ほんとに酒はどうしたんでエ。
「こうしてから飲むがいいサ。
と突然《だしぬけ》に夜具を引剥《ひつぱ》ぐ。夫婦《ふうふ》の間とはいえ男はさすが狼狙《うろた》えて、女房の笑うに我からも噴飯《ふきだし》ながら衣類《きもの》を着る時、酒屋の丁稚《でっち》、
「ヘイお内室《かみさん》ここへ置きます、お豆腐は流しへ置きますよ。
と徳利《とくり》と味噌漉を置いて行くは、此家《ここ》の内儀《かみさん》にいいつけられたるなるべし。
「さあ、お前はお湯《ぶう》へいっておいでよ、その間にチャンとしておくから。
手拭《てぬぐい》と二銭銅貨を男に渡す。片手には今手拭を取った次手《ついで》に取った帚《ほうき》をもう持っている。
「ありがてえ、昔時《むかし》からテキパキした奴《やつ》だったッケ、イヨ嚊大明神《かかあだいみょうじん》。
と小声で囃《はや》して後《あと》でチョイと舌を出す。
「シトヲ、馬鹿《ばか》にするにも程《ほど》があるよ。
大明神|眉《まゆ》を皺《しわ》めてちょいと睨《にら》んで、思い切って強《ひど》く帚で足を薙《な》ぎたまう。
「こんべらぼうめ。
男は笑って呵《しか》りながら出で行く。
その二
浴後《ゆあがり》の顔色|冴々《さえざえ》しく、どこに貧乏の苦があるかという容態《ありさま》にて男は帰り来る。一体|苦《にが》み走《ばし》りて眼尻《めじり》にたるみ無く、一の字口の少し大《おおき》なるもきっと締《しま》りたるにかえって男らしく、娘にはいかがなれど浮世《うきよ》の鹹味《からみ》を嘗《な》めて来た女には好《す》かるべきところある肌合《はだあい》なリ。あたりを片付け鉄瓶《てつびん》に湯も沸《たぎ》らせ、火鉢《ひばち》も拭いてしまいたる女房おとま、片膝《かたひざ》立てながら疎《あら》い歯の黄楊《つげ》の櫛《くし》で邪見《じゃけん》に頸足《えりあし》のそそけを掻《か》き憮《な》でている。両袖《りょうそで》まくれてさすがに肉付《にくづき》の悪からぬ二の腕《うで》まで見ゆ。髪はこの手合《てあい》にお定《さだ》まりのようなお手製の櫛巻なれど、身だしなみを捨てぬに、小官吏《こやくにん》の細君《さいくん》などが四銭の丸髷《まるまげ》を二十日《はつか》も保《も》たせたるよりは遥《はるか》に見よげなるも、どこかに一時は磨《みが》き立《たて》たる光の残れるが助《たすけ》をなせるなるべし。亭主の帰り来りしを見て急に立上り、
「さあ、ここへおいで。
と坐《ざ》を与《あた》う。男は無言で坐り込み、筒湯呑《つつゆのみ》に湯をついで一杯《いっぱい》飲む。夜食膳《やしょくぜん》と云いならわした卑《いや》しい式《かた》の膳が出て来る。上には飯茶碗《めしぢゃわん》が二つ、箸箱《はしばこ》は一つ、猪口が《ちょく》が二ツと香《こう》のもの鉢《ばち》は一ツと置ならべられたり。片口は無いと見えて山形に五の字の描《か》かれた一升徳利《いっしょうどくり》は火鉢の横に侍坐《じざ》せしめられ、駕籠屋《かごや》の腕と云っては時代|違《ちが》いの見立となれど、文身《ほりもの》の様に雲竜《うんりゅう》などの模様《もよう》がつぶつぶで記された型絵の燗徳利《かんどくり》は女の左の手に、いずれ内部《なか》は磁器《せともの》ぐすりのかかっていようという薄鍋《うすなべ》が脆《もろ》げな鉄線耳《はりがねみみ》を右の手につままれて出で来る。この段取の間、男は背後《うしろ》の戸棚《とだな》に※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]《よ》りながらぽかりぽかり煙草《たばこ》をふかしながら、腮《あご》のあたりの飛毛《とびげ》を人さし指の先へちょと灰《はい》をつけては、いたずら半分に抜《ぬ》いている。女が
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