鉄瓶を小さい方の五徳《ごとく》へ移せば男は酒を燗徳利に移す、女が鉄瓶の蓋《ふた》を取る、ぐいと雲竜を沈《しず》ませる、危《あやう》く鉄瓶の口へ顔を出した湯が跳《おど》り出しもし得ず引退《ひっこ》んだり出たりしている間《ま》に鍋は火にかけられる。
「下の抽斗《ひきだし》に鰹節《かつぶし》があるから。
と女は云いながら立って台所へ出でしが、つと外へ行く。
「チョツ、削《か》けといやあがるのか。
と不足らしい顔つきして女を見送りしが、何が眼につきしや急にショゲて黙然《だんまり》になって抽斗を開《あ》け、小刀《こがたな》と鰹節《ふし》とを取り出したる男は、鰹節《ふし》の亀節《かめぶし》という小《ちさ》きものなるを見て、
「ケチびんなものを買っときあがる。
と独言《ひとりごと》しつつそこらを見廻して、やがて膳の縁《ふち》へ鰹節《ふし》をあてがって削く。
女はたちまち帰り来りしが、前掛《まえかけ》の下より現われて膳に上《のぼ》せし小鉢《こばち》には蜜漬《みつづけ》の辣薑《らっきょう》少し盛《も》られて、その臭気《におい》烈《はげ》しく立《た》ち渡《わた》れり。男はこれに構わず、膳の上に散りし削《かい》たる鰹節を鍋の中《うち》に摘《つま》み込《こ》んで猪口《ちょく》を手にす。注《つ》ぐ、呑《の》む。
「いいかエ。
「素敵だッ、やんねえ。
女も手酌《てじゃく》で、きゅうと遣《や》って、その後徳利を膳に置く。男は愉快気《ゆかいげ》に重ねて、
「ああ、いい酒だ、サルチルサンで甘《あめ》え瓶《びん》づめとは訳が違う。
「ほめてでももらわなくちゃあ埋《うま》らないヨ、五十五銭というんだもの。
「何でも高くなりやあがる、ありがてえ世界《せけえ》だ、月に百両じゃあ食えねえようになるんでなくッちゃあ面白くねえ。
「そりゃあどういう理屈《りくつ》だネ。
「一揆《いっき》がはじまりゃあ占《し》めたもんだ。
「下らないことをお言いで無い、そうすりゃあ汝《おまえ》はどうするというんだエ。
「構うことあ無えやナ、岩崎《いわさき》でも三井《みつい》でも敲《たた》き毀《こわ》して酒の下物《さかな》にしてくれらあ。
「酔《よ》いもしない中からひどい管《くだ》だねエ、バアジンへ押込んで煙草三本拾う方じゃあ無いかエ、ホホホホ。
「馬鹿あ吐《ぬ》かせ、三銭の恨《うらみ》で執念《しゅうねん》をひく亡者《もうじゃ》の女房《かかあ》じゃあ汝《てめえ》だってちと役不足だろうじゃあ無《ね》えか、ハハハハ。
「そうさネエ、まあ朝酒は呑ましてやられないネ。
「ハハハ、いいことを云やあがる、そう云わずとも恩には被《き》らあナ。
「何をエ。
「今飲んでる酒をヨ。
「なぜサ。
「なぜでもいいわい、ただ美味《うめ》えということよ。
「オヤ、おハムキかエ、馬鹿らしい。
「そうじゃあ無《ね》えが忘れねえと云うんだい、こう煎《せん》じつめた揚句《あげく》に汝《てめえ》の身の皮を飲んでるのだもの。
「弱いことをお云いだねエ、がらに無いヨ。
「だってこうなってからというものア運とは云いながら為《す》ることも為ることもどじを踏《ふ》んで、旨《うめ》え酒一つ飲ませようじゃあ無し面白い目一つ見せようじゃあ無し、おまけに先月あらいざらい何もかも無くしてしまってからあ、寒蛬《こおろぎ》の悪く啼《な》きやあがるのに、よじりもじりのその絞衣《しぼり》一つにしたッ放《ぱな》しで、小遣銭《こづけえぜに》も置いて行かずに昨夜《ゆうべ》まで六日《むいか》七日《なのか》帰りゃあせず、売るものが留守《るす》に在《あ》ろうはずは無し、どうしているか知らねえが、それでも帰るに若干銭《なにがし》か握《つか》んで家《うち》へ入《へ》えるならまだしもというところを、銭に縁のあるものア欠片《かけら》も持たず空腹《すきっぱら》アかかえて、オイ飯を食わしてくれろッてえんで帰っての今朝《けさ》、自暴《やけ》に一杯《いっぺえ》引掛《ひっか》けようと云やあ、大方|男児《おとこ》は外へも出るに風帯《ふうてえ》が無くっちゃあと云うところからのことでもあろうが、プッツリとばかりも文句無しで自己《おの》が締めた帯を外《はず》して来ての正宗《まさむね》にゃあ、さすがのおれも刳《えぐ》られたア。今ちょいと外面《おもて》へ汝《てめえ》が立って出て行った背影《うしろかげ》をふと見りゃあ、暴《あば》れた生活《くらし》をしているたア誰《た》が眼にも見えてた繻子《しゅす》の帯、燧寸《マッチ》の箱のようなこんな家に居るにゃあ似合わねえが過日《こねえだ》まで贅《ぜい》をやってた名残《なごり》を見せて、今の今まで締めてたのが無くなっている背《うしろ》つきの淋《さみ》しさが、厭《いや》あに眼に浸《し》みて、馬鹿馬鹿しいがホロリッとなったア。世帯《しょたい》もこれで幾度《いくたび》か持っては毀《こわ》し持っては毀し、女房《かかあ》も七度《ななたび》持って七度出したが、こんな酒はまだ呑まなかった。
「何だネエ汝《おまえ》は、朝ッぱらから老実《じみ》ッくさいことをお言いだネ。
「ハハハ、そうよ、異《おつ》に後生気《ごしょうぎ》になったもんだ。寿命《じゅみょう》が尽《つ》きる前にゃあ気が弱くなるというが、我《おら》アひょっとすると死際《しにぎわ》が近くなったかしらん。これで死んだ日にゃあいい意気地無《いくじな》しだ。
「縁起《えんぎ》の悪いことお云いでないよ、面白くもない。そんなことを云っているより勢いよくサッと飲んで、そしていい考案《かんがえ》でも出してくれなくちゃあ困るよ。
「いいサ、飲むことはこの通りお達者だ、案じなさんな。児を棄《す》てる日になりゃア金の茶釜《ちゃがま》も出て来るてえのが天運だ、大丈夫《だいじょうぶ》、銭が無くって滅入《めい》ってしまうような伯父《おじ》さんじゃあねえわ。
「じゃあ何《なん》かいい見込《みこみ》でも立ってるのかエ。
「ナアニ、ちっとも立ってねえのヨ。
「どうしたらそういい気になっていられるだろうネ。仕様が無いネエ、どうかしておくれで無くっちゃあわたしももうしようもようも有りゃあしないヨ。
「ナアニ、いよいよ仕様が無けりゃあ、またちょいと書く法もあらア。
「どうおしなのだエ。
「強盗《ごうとう》と出かけるんだ。
「智慧《ちえ》が無いねエ、ホホホホ。詰らない洒落《しゃれ》ばかり云わずと真実《ほんと》にサ。
「真実《ほんと》に遣付《やっつ》けようかと思ってるんだ。オイ、三年の恋《こい》も醒《さ》めるかナッ、ハハハ。
「冗談《じょうだん》を云わずと真誠《ほんと》に、これから前《さき》をどうするんだか談《はな》して安心さしておくれなネエ。茶かされるナア腹が立つよ、ひとが心配しているのに。
「心配は廃《よ》しゃアナ。心配てえものは智慧袋《ちえぶくろ》の縮《ちぢ》み目の皺《しわ》だとヨ、何にもなりゃあしねえわ。
「だって女の気じゃあいくらわたしが気さくもんでも、食べるもん無し売るもんなしとなるのが眼に見えてちゃあ心配せずにゃあいられないやネ。
「ご道理《もっとも》千万《せんばん》に違《ちげ》えねえ、これから売るものア汝《てめえ》の身体《からだ》より他にゃあ無《ね》えんだ。おれの身体でも売れるといいんだが、野郎と来ちゃあ政府《おかみ》へでも売りつけるより仕様がねえ、ところでおれ様と来ちゃあ政府《おかみ》でも買い切れめえじゃあねえか。川岸《かし》女郎《じょろう》になる気で台湾《たいわん》へ行くのアいいけれど、前借《ぜんしゃく》で若干銭《なにがし》か取れるというような洒落た訳にゃあ行かずヨ、どうも我ながら愛想《あいそ》の尽きる仕義だ。
「そんな事をいってどうするんだエ。
「どうするッてどうもなりゃあしねえ、裸体《はだか》になって寝ているばかりヨ。塵挨《ほこり》が積《たか》る時分にゃあ掘出し気《ぎ》のある半可通《はんかつう》が、時代のついてるところが有り難《がて》えなんてえんで買って行くか知れねえ、ハハハ。白丁《はくちょう》奴《め》軽くなったナ。
「ほんとに人を馬鹿にしてるね。わたしを何だとおもっておいでのだエ、こっちは馬鹿なら馬鹿なりに気を揉《も》んでるのに、何もかも茶にして済《す》ましているたあ余《あんま》り人を袖《そで》にするというものじゃあ無いかエ。
と少しつんとして、じれったそうにグイと飲む。酒の廻りしため面《おもて》に紅色《くれない》さしたるが、一体|醜《みにく》からぬ上|年齢《としばえ》も葉桜《はざくら》の匂《におい》無くなりしというまでならねば、女振り十段も先刻《さき》より上りて婀娜《あだ》ッぽいいい年増《としま》なり。
「そう悪く取っちゃあいけねエ。そんなら実《ほん》の事を云おうか、実《じつ》はナ。
「アアどうするッてエの。
「実はナ。ほんとうの事を云やあ、ナ。
「アアどうするッてエのだッていうのにサ。
「エエ糞《くそ》ッ、忌々《いめえま》しいが云ってしまおう。実は過日《こねえだ》家《うち》を出てから、もうとても今じゃあ真当《ほんと》の事ア遣《やっ》てる間《ま》がねえから汝《てめえ》に算段させたんで、合百《ごうひゃく》も遣りゃあ天骰子《てんさい》もやる、花も引きゃあ樗蒲一《ちょぼいち》もやる、抜目《ぬけめ》なくチーハも買う富籤《とみ》も買う。遣らねえものは燧木《マッチ》の賭博《かけ》で椋鳥《むくどり》を引っかける事ばかり。その中《うち》にゃあ勝ちもした負けもした、いい時ゃ三百四百も握《にぎ》ったが半日たあ続かねえでトドのつまりが、残ったものア空財布《からさいふ》の中に富籤《とみ》の札《ふだ》一枚《いちめえ》だ。こいつあ明日《あした》になりゃあ勝負がつくのだ、どうせ無益《むだ》にゃあ極《きま》ってるが明日《あした》行って見ねえ中は楽みがある、これよりほかに当《あて》は無えんだ。オイ軽蔑《さげすむ》めえぜ、馬鹿なものを買ったのも詮《せん》じつめりゃあ、相場をするのと差《ちげえ》はねえのだ、当らねえには極《き》まらねえわサ。もうこうなっちゃあ智慧も何も、有ったところで役に立たねえ、有体《ありてい》に白状すりゃこんなもんだ。
女房《にょうぼ》は眉《まゆ》を皺《しわ》めながら、
「それもそうだろうが汝《おまい》そうして当らない時はどうするつもりだエ。
「ハハハ、どうもならねえそう聞かれちゃあ。生きてる中はどうかこうか食わずにゃあいねえものだ、構うものかイ。だから裸で寝ていようというんだ。愛想《あいそ》が尽きたか、可愛想《かわいそう》な。厭気《いやき》がさしたらこの野郎に早く見切をつけやあナ、惜いもんだが別れてやらあ。汝《てめえ》が未来《このさき》に持っている果報の邪魔《じゃま》はおれはしねえ、辛《つら》いと汝が《てめえ》がおもうなら辛いつきあいはさせたくねえから。
とさすが快活《きさく》な男も少し鼻声になりながらなお酔《よい》に紛《まぎ》らして勢《いきおい》よく云う。味わえば情も薄からぬ言葉なり。女は物も云わず、修行《しゅぎょう》を積んだものか泣きもせず、ジロリと男を見たるばかり、怒った様子にもあらず、ただ真面目《まじめ》になりたるのみ。
男なお語をつづけて、
「それともこう云っちゃあ少しウヌだが、貧《ひん》すりゃ鈍《どん》になったように自分でせえおもうこのおれを捨ててくれねえけりゃア、真《ほん》の事《こっ》たあ、明日の富に当らねえが最期《さいご》おらあ強盗になろうとももうこれからア栄華《えいが》をさせらあ。チイッと覚悟《かくご》をし直してこれからの世を渡《わた》って行きゃあ、二度と汝《てめえ》に銭金の苦労はさせねえ。まだこの世界《せけえ》は金銭《かね》が落ちてる、大層くさくどこへ行っても金金と吐《ぬか》しゃあがってピリついてるが、おれの眼で見りゃあ狗《いん》の屎《くそ》より金はたくさんにころがってらア。ただ狗《いん》の屎を拾う気になって手を出しゃあ攫取《つかみど》りだ、真《ほん》の事《こっ》たあ、馬鹿な世界だ。
「訳が解《わか》らないよ汝《おまえ》の云うことア、やっぱり強盗におなりだというのかエ。
「馬鹿ア云え、強盗になりゃアどうなるとおも
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