う。
「赤い衣服《きもの》を着る結局《おち》が汝《おまえ》のトドの望なのかエ、お茶人過ぎるじゃあ無いか。
「赤い衣服《きもの》ア善人《ぜんにん》だから被《き》せられるんだ。そんなケチなのとアちと違うんだが、おれが強盗になりゃ汝《てめえ》はどうする。
「厭だよ、そんな下らないことを云っては、お隣家《となり》だって聞いてるヨ。
「隣家で聞いたって巡査《じゅんさ》が聞いたって、談話《はなし》だイ、構うもんか、オイどうする。
「おふざけで無いよ馬鹿馬鹿しい。
と今は一切受付けぬ語気。男はこの様子を見て四方《あたり》をきっと見廻《みま》わしながら、火鉢越に女の顔近く我顔を出して、極めて低き声ひそひそと、
「そんなら汝《てめえ》、おれが一昨日《おととい》盗賊《ぬすみ》をして来たんならどうするつもりだ。
と四隣《あたり》へ気を兼ねながら耳語《ささや》き告ぐ。さすがの女ギョッとして身を退《ひ》きしが、四隣を見まわしてさて男の面をジッと見、その様子をつくづく見る眼に涙《なみだ》をにじませて、恐る恐る顔を男の顔へ近々と付けて、いよいよ小声に、
「金《きん》さん汝《おまい》情無い、わたしにそんなことを聞かなくちゃアならない事をしておくれかエ。エ、エ、エ。
「ム、ム、マアいいやナ、してもしねえでも。ただ汝《てめえ》の返辞が聞きてえのだ。
「どうしても汝《おまい》聞きたいのかエ。
女の唇《くちびる》は堅《かた》く結ばれ、その眼は重々しく静かに据《すわ》り、その姿勢《なり》はきっと正され、その面は深く沈める必死の勇気に満《みた》されたり。男は萎《しお》れきったる様子になりて、
「マア、聞きてえとおもってもらおう。おらあ汝《おめえ》の運は汝に任《まか》せてえ、おらが横車を云おう気は持たねえ、正直に隠《かく》さず云ってくれ。
女はグイとまた仰飲《あお》って、冷然として云い放った。
「何が何でもわたしゃアいいよ、首になっても列《なら》ぼうわね。
面は火のように、眼は耀《かがや》くように見えながら涙はぽろりと膝《ひざ》に落ちたり。男は臂《ひじ》を伸《のば》してその頸《くび》にかけ、我を忘れたるごとく抱《いだ》き締《し》めつ、
「ムム、ありがてえ、アッハハハハ、ナニ、冗談《じょうだん》だあナ。べらぼうめえ、貧乏したって誰《だれ》が馬鹿なことをしてなるものか。ああ明日の富籤《とみ》に当りてえナ、千両取れりゃあ気息《いき》がつけらあ。エエ酒が無《ね》えか、さあ今度アこれを売って来い。構うもんかイ、構うもんかイ、当らあ当らあきっと当らあ。
とヒラリと素裸《すはだか》になって、寝衣《ねまき》に着かえてしまって、
やぼならこうした うきめはせまじ、
と無間《むげん》の鐘《かね》のめりやすを、どこで聞きかじってか中音に唸《うな》り出す。
[#地から1字上げ](明治三十年十月)
底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学全集4」筑摩書房
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※底本の次の個所(頁−行)の「小書き片仮名ト」(JIS X 0213、1−6−81)は「ト」に置き換えました。コウト(27−5) 一ト眼(31−9)
※閉じ括弧は無しはすべて、底本通り。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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