兼に襲はれた時応戦し無かつたやうなもので、公辺に対して自分を理に敵を非に置かうとしたのであつた。将門は腹立紛《はらたちまぎ》れに乱暴して帰つたから、今度は常陸方から解文《げぶん》を上して将門を訴へた。で、将門の方へ官符が来て召問はるべきことになつたのだ。事情が紛糾《ふんきう》して分らないから、官使純行等三人は其時東国へ下向したのである。将門は弁解した、上京はしなかつた。そこへ又後から貞盛は将門の横暴を直訴《ぢきそ》して頂戴した将門追捕の官符を持つて帰つて来たのである。これで極《きは》めて鮮《あざ》やかに前後の事情は分る。貞盛は将門追捕の符を持つて帰つたが、将門の方から云へば貞盛は良兼追捕の符の下つた時、良兼同罪であつて同じく配符の廻つて居た者だから、追捕を逃れ上京した時、公《おほやけ》に於て取押へて糺問《きうもん》さるべき者であるにかゝはらず、其者に取つて理屈の好い将門追捕の符を下さるゝとは怪《け》しからぬ矯飾《けうしよく》であると突撥《つつぱ》ねてゐるのである。こゝまでは将門の言ふところに点頭の出来る情状と理路とがある。玄明の事に就ては少し無理があり、信じ難い情状がある。玄明を従兵といふのが奇異だ。行方河内両郡の食糧を奪つたものを執《とら》へんとするものを、寃枉《ゑんわう》を好むとは云ひ難い。為憲貞盛合体して兵を動かしたといふのは、蓋《けだ》し事実であらうが、要するに維幾と対談に出かけたところからは、将門のむしやくしや腹の決裂である。此書の末の方には憤怨|恨※[#「りっしんべん+(緋−糸)」、第4水準2−12−50]《こんひ》と自暴の気味とがあるが、然し天位を何様《どう》しようの何のといふそんな気味は少しも無い。むしろ、乱暴はしましたが同情なすつても宜《よ》いではありませんか、あなたには御気の毒だが、男児として仕方が無いぢやありませんか、といふ調子で、将門が我武者一方で無いことを現はしてゐて愛す可《べ》きである。
 将門は厭《いや》な浮世絵に描かれた如き我武者一方の男では無い。将門の弟の将平は将門よりも又やさしい。将門が新皇と立てられるのを諫《いさ》めて、帝王の業は智慧《ちゑ》力量の致すべきでは無い、蒼天《さうてん》もし与《く》みせずんば智力また何をか為《な》さん、と云つたとある。至言である。好人である。斯様《かう》いふ弟が有つては、日本ではだめだが国柄によつては将門も真実の天子となれたかも知れない。弓削道鏡《ゆげのだうきやう》の一類には玄賓僧都《げんぴんそうづ》があり、清盛の子に重盛があり、将門の弟に将平の有つたのは何といふ面白い造物の脚色だらう。何様《どう》も戯曲には真の歴史は無いが、歴史には却《かへ》つて好い戯曲がある。将門の家隷《けらい》の伊和員経《いわのかずつね》といふ者も、物静かに将門を諫めたといふ。然し将門は将平を迂誕《うたん》だといひ、員経を心無き者だといつて容れなかつた由だが、火事もこゝまで燃えほこつては、救はんとするも焦頭爛頭《せうとうらんとう》あるのみだ。「とゞの詰りは真白《まつしろ》な灰」になつて何も浮世の埒《らち》が明くのである。「上戸《じやうこ》も死ねば下戸も死ぬ風邪《かぜ》」で、毒酒の美《うま》さに跡引上戸となつた将門も大酔淋漓《たいすゐりんり》で島広山《しまひろやま》に打倒れゝば、「番茶に笑《ゑ》んで世を軽う視る」といつた調子の洒落《しや》れた将平も何様《どう》なつたか分らない。四角な蟹《かに》、円い蟹、「生きて居る間のおの/\の形《なり》」を果敢《はか》なく浪の来ぬ間の沙《すな》に痕《あと》つけたまでだ。
 将平員経のみではあるまい、群衆心理に摂収されない者は、或は口に出して諫《いさ》め、或は心に秘めて非としたらうが、興世王や玄茂が事を用ゐて、除目《ぢもく》が行はれた。将門の弟の将頼は下野守に、上野守に常羽御厩別当多治経明を、常陸守に藤原玄茂を、上総守に興世王を、安房守に文室好立を、相模守に平将文を、伊豆守に平将武を、下総守に平将為を、それ/″\の受領が定められた。毒酒の宴は愈※[#二の字点、1−2−22]はづんで来た。下総の亭南《ていなみ》、今の岡田の国生《くにふ》村あたりが都になる訳で、今の葛飾《かつしか》の柳橋か否か疑はしいが※[#「木+義」、第3水準1−86−23]橋《ふなばし》といふところを京の山崎に擬《なぞ》らへ、相馬の大井津、今の大井村を京の大津に比し、こゝに新都が阪東に出来ることになつたから、景気の好いことは夥《おびたゞ》しい。浮浪人や配流人、なま学者や落魄公卿《らくはくくげ》、いろ/\の奴が大臣にされたり、参議にされたり、雑穀屋の主人が大納言金時などと納まりかへれば、掃除屋が右大弁|汲安《くみやす》などと威張り出す、出入の大工が木工頭《もくのかみ》、お針の亭主が縫殿頭《ぬひのかみ》、山井庸仙《やまゐようせん》老が典薬頭、売卜の岩洲友当《いはずともあて》が陰陽《おんやう》博士《はかせ》になるといふ騒ぎ、たゞ暦日博士だけにはなれる者が無かつたと、京童《きやうわらべ》が云つたらしい珍談が残つてゐる。
 上総安房は早くも将門に降つたらう。武蔵相模は新皇親征とあつて、馬蹄|戞※[#二の字点、1−2−22]《かつ/\》大軍南に向つて発した。武蔵も論無く、相模も論無く降伏したらしく別に抵抗をした者の談《はなし》も残つて居ない。諸国が弱い者ばかりといふ訳ではあるまいが、一つには官の平生の処置に悦服《えつぷく》して居なかつたといふ事情があつて、むしろ民庶は何様《どん》な新政が頭上《づじやう》に輝くかと思つたために、将門の方が勝つて見たら何様《どう》だらうぐらゐに心を持つてゐたのであらう。それで上野下野武蔵相模たちまちにして旧官は逐落《おひおと》され、新軍は勢《いきほひ》を得たのかと想像される。相模よりさきへは行かなかつたらしいが、これは古の事で上野は碓氷《うすひ》、相模は箱根|足柄《あしがら》が自然の境をなしてゐて、将門の方も先づそこらまで片づけて置けば一段落といふ訳だつたからだらう。相州|秦野《はたの》あたりに、将門が都しようかとしたといふ伝説の残つてゐるのも、将門軍がしばらくの間彷徨したり駐屯したりしてゐた為に生じたことであらう。燎原《れうげん》の勢《いきほひ》、八ヶ国は瞬間にして馬蹄《ばてい》の下になつてしまつた。実際平安朝は表面は衣冠束帯|華奢《くわしや》風流で文明くさかつたが、伊勢物語や源氏物語が裏面をあらはしてゐる通り、十二|単衣《ひとへ》でぞべら/\した女どもと、恋歌《こひか》や遊芸に身の膏《あぶら》を燃して居た雲雀骨《ひばりぼね》の弱公卿《よわくげ》共との天下であつて、日本各時代の中でも余り宜《よろ》しく無く、美なること冠玉の如くにして中|空《むな》しきのみの世であり、やゝもすれば暗黒時代のやうに外面のみを見て評する人の多い鎌倉時代などよりも、中味は充実してゐない危い代であつたのは、将門ばかりでは無い純友などにも脆《もろ》く西部を突崩されて居るのを見ても分る。元の忽必然《クビライ》が少し早く生れて、平安朝に来襲したならば、相模太郎になつて西天を睥睨《へいげい》してウムと堪《こら》へたものは公卿どもには無くつて、却《かへ》つて相馬小次郎将門だつたかも知れはし無い。「荒|壁《つと》に蔦のはじめや飾り縄」で、延喜式の出来た時は頼朝が頤《あご》で六十余州を指揮《しき》する種子《たね》がもう播《ま》かれてあつたとも云へるし、源氏物語を読んでは大江広元が生まれない遥《はるか》に前に、気運の既《すで》に京畿《けいき》に衰えてゐることを悟つた者が有つたかも知れないとも云へる。忠常の叛、前九年、後三年の乱は、何故に起つた。直接には直接の理由が有らうが、間接には粉面|涅歯《でつし》の公卿共がイソップ物語の屋根の上の羊みたやうにして居たからだ。奥州藤原家が何時《いつ》の間にか、「だんまり虫が壁を透《とほ》す」格で大きなものになつてゐたのも、何を語つてゐるかと云へば、「都のうつけ郭公《ほとゝぎす》待つ」其間におとなしくどし/\と鋤鍬《すきくは》を動かして居たからだ。天下枢機の地に立つ者が平安朝ほど惰弱|苟安《こうあん》で下らない事をしてゐたことは無い位だ。だから将門が火の手をあげると、八箇国はべた/\となつて、京では七|斛余《こくよ》の芥子《けし》を調伏祈祷の護摩《ごま》に焚《た》いて、将門の頓死屯滅《とんしとんめつ》を祈らせたと云伝《いひつた》へられて居る。八箇国を一月ばかりに切従へられて、七|斛《こく》の芥子を一七日に焚いたなぞは、帯紐の緩《ゆる》み加減も随分|太甚《はなはだ》しい。
 相模から帰つた将門は、天慶三年の正月中旬、敵の残党が潜んでゐる虞《おそれ》のある常陸へと出馬して鎮圧に力《つと》めた。丁度都では此時参議|右衛門督《うゑもんのかみ》藤原忠文を征東大将軍として、東征せしむることになつた。忠文は当時唯一の将材だつたので、後に純友征伐にも此人が挙げられて居る。忠文は命を受けた時、方《まさ》に食事をしてゐたが、命を聞くと即時に箸《はし》を投じて起つて、節刀《せつたう》を受くるに及んで家に帰らずに発したといふ。生《なま》ぬるい人のみ多かつた当時には立派な人だつた。しかし戦ふに及ばぬ間に将門が亡びたので賞に及ばなかつたのを恨んで、拳《こぶし》を握つて爪が手の甲にとほり、怨言を発して小野宮《をののみや》大臣を詛《のろ》つたといふところなどは余り小さい。将門が常陸へ入ると那珂久慈《なかくじ》両郡の藤原氏どもは御馳走をして、へいこらへいこらをきめた。そこで貞盛為憲等の在処《ありか》を申せと責めたが、貞盛為憲等は此等の藤原氏どもに捕へられるほど間抜《まぬけ》でも弱虫でも無かつた。其中将門軍の多治経明等の手で、貞盛の妻と源扶の妻を吉田郡の蒜間江《ひるまえ》で捕へた。蒜間江は今の茨城郡の涸沼《ひぬ》である。
 前には将門の妻が執《とら》へられ、今は貞盛の妻が執《とら》へられた。時計の針は十二時を指したかと思ふと六時を指すのだ。女等は衣類まで剥取《はぎと》られて、みじめな態《さま》になつたが、この事を聞いた将門は良兼とは異つた性格をあらはした。流浪《るらう》の女人を本属にかへすは法式の恒例であると、相馬小次郎は法律に通じ、思ひやりに富んで居た。衣|一襲《ひとかさね》を与へて放ち還《かへ》らしめ、且《か》つ一首の歌を詠じた。よそにても風のたよりに我ぞ問ふ枝離れたる花のやどりを、といふのである。貞盛の妻は恩を喜んで、よそにても花の匂《にほひ》の散り来れば吾が身わびしとおもほえぬかな、と返歌した。歌を詠《よ》みかけられて返しをせぬと、七生|唖《おし》にでもなるやうに思つてゐたらしい当時の人のことで此の返しはあつたのだらう。此歌此事を引掛けて、源護の家と将門との争闘の因縁《いんねん》にでもこじつけると、古い浄瑠璃作者が喉《のど》を鳴らしさうな材料になる。扶の妻も歌を詠んだ。流石《さすが》に平安朝の匂のする談で、吹きすさぶ風の中にも春の日は花の匂のほのかなるかな、とでも云ひたい。清宮秀堅がこゝに心をとめて、「将門は凶暴といへども草賊と異なるものあり、良兼を放てる也、父祖の像を観て走れる也、貞盛扶の妻を辱《はづ》かしめざる也」と云つて居るが、実に其の通りである。将門は時代が遠く事実が詳しく知れぬから、元亀天正あたりの人のやうに細かい想像をつけることは叶《かな》はぬが、何様《どう》も李自成やなんぞのやうなものでは無い。やはり日本人だから日本人だ。興世王や玄明を相手に大酒を飲んで、酔払つて管《くだ》さへ巻かなかつたらば、氏《うぢ》は異ふが鎮西《ちんぜい》八郎|為朝《ためとも》のやうな人と後の者から愛慕されただらうと思はれる。
 戯曲はこゝにまた一場ある。貞盛の妻は放されて何様《どう》したらう。およそ情のある男女の間といふものは、不思議に離れてもまた合ふもので、虫が知らせるといふものか何《ど》うか分らぬが、「慮《おも》つて而して知るにあらず、感じて而して然るなり」で、動物でも何でも牝牡《ひんぼ》雌雄が引分
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