、勇者は独往し怯者《けふしや》は同行する、創作者は独自で模倣者《もはうしや》は群集、智者は寥※[#二の字点、1−2−22]《れう/\》、愚者は多※[#二の字点、1−2−22]であつて、群衆して居るといへば既《すで》にそれは弱小|蠢愚《しゆんぐ》の者なる事を現はして居る位のものである。群衆心理は即《すなは》ち衆愚心理なのであるから、皆自から主たる能《あた》はざるほどの者共が、相率《あひひき》ゐて下らぬ事を信じたり、下らぬ事を怒つたり悲しんだり喜んだり、下らぬ行動を敢《あへ》てしたりしても何も異とするには足らない。魚は先頭魚の後へついて行き、鳥は先発鳥の後へつくものである。群衆は感の一致から妄従妄動するもので、浅野|内匠頭《たくみのかみ》の家は潰《つぶ》され城は召上げられると聞いた時、一二が籠城して戦死しようと云へば、皆争つて籠城戦死しようとしたのが即ち群衆心理である。其実は主家の為に忠に死するに至つた者は終《つひ》に何程も有りはし無かつた。感の一致が月日の立つと共に破れると、御金配分を受けて何処《どこ》かへ行つてしまふのが却《かへ》つて本態だつたのである。そこで衆愚心理を見破つて、これを正しく用ゐるのが良い政治家や軍人で、これを吾が都合上に用ゐるのが奸雄《かんゆう》や煽動家《せんどうか》である。八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の御託宣は群衆を動かした。群衆は無茶に歓《よろこ》んだ。将門は新皇と祭り上げられた。通り魔の所為だ、天狗の所為だ。衆愚心理は巨浪を※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]島《ゑんたう》に持上げてしまつた。将門は毒酒を甘しとして其の第二盃を仰いでしまつた。
 道真公が此処《こゝ》へ陪賓《ばいひん》として引張り出されたのも面白い。公の貶謫《へんたく》と死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威を藉《か》りたなどは一寸《ちよつと》をかしい。たゞ将門が菅公|薨去《こうきよ》の年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道|巫覡《ふげき》の徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふ可《べ》きことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷《きたう》をした叡山《えいざん》の明達《めいたつ》阿闍梨《あじやり》の如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記《ふさうりやくき》に見えてゐるが、これなぞは随分|変挺《へんてこ》な御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾《かつ》て無い大動揺が火の如くに起つて、瞬《またゝ》く間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲《せきけん》したのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様《かやう》なことを口走つたかとも思はれる。然《しか》らずば、一時の賞賜《しやうし》を得ようとして、斯様なことを妄言《まうげん》するに至つたのかも知れない。
 田原藤太が将門を訪ふた談《はなし》は、此の前後の事であらう。秀郷《ひでさと》は下野掾《しもつけのじよう》で、六位に過ぎぬ。左大臣|魚名《うをな》の後で、地方に蟠踞《ばんきよ》して威望を有して居たらうが、これもたゞの人ではない。何事の罪を犯したか知らぬが、延喜十六年八月十二日に配流《はいる》されたとある。同時に罪を得たものは、同国人で同姓の兼有《かねあり》、高郷《たかさと》、興貞《おきさだ》等十八人とあるから、何か可なりの事件に本《もと》づいたに相違無い。日本紀略にも罪状は出て居らぬが、都まで通つた悪事でもあり、人数も多いから、いづれ党を組み力を戮《あは》せて為《し》た事だらう。何にしても前科者だ、一筋《ひとすぢ》で行く男では無い。将門を訪ふた談《はなし》は、時代ちがひの吾妻鏡《あづまかゞみ》の治承四年九月十九日の条に、昔話として出て居るので、「藤原秀郷、偽《いつ》はりて門客に列す可《べ》きの由《よし》を称し、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、梳《くし》けづるところの髪を肆《をは》らず、即ち烏帽子に引入れて之に謁《えつ》す。秀郷其の軽忽なるを見、誅罰《ちゆうばつ》す可《べ》きの趣《おもむき》を存じ退出し、本意の如く其首を獲たり云※[#二の字点、1−2−22]」といふので、源平盛衰記には、「将門と同意して朝家を傾け奉り、日本国を同心に知らんと思ひて、行向ひて角《かく》といふ」と巻二十二に書き出して、世に伝へたる髪の事、飯粒の事を書いて居る。盛衰記に書いてある通りならば、秀郷は随分|怪《け》しからぬ料簡方《れうけんかた》の男で、興世王の事を為《な》さずして終つたが、興世王の心を懐《いだ》いてゐた人だと思はれる。斎藤竹堂が論じた如く、秀郷の事跡を観《み》れば朝敵を対治したので立派であるが、其の心術を考へれば悪《にく》むべきところのあるものである。然し源平盛衰記の文を証にしたり、日本外史を引いて論じられては、是非も共に皆非であつて、田原藤太も迷惑だらう。吾妻鏡は「偽はりて称す云※[#二の字点、1−2−22]」と記し、大日本史は「秀郷陽に之に応じ、其の営に造《いた》りて謁を通ず」と記してゐる。此の意味で云へば、将門の勢《いきほひ》が浩大《かうだい》で、独力之を支ふることが出来無かつたから、下野掾の身ではあるが、尺蠖《せきくわく》の一時を屈して、差当つての難を免れ、後の便宜にもとの意で将門の許《もと》を訪《と》ふたといふのであるから、咎《とが》むべきでは無い。竹堂の論もむだ言である。が、盛衰記の記事が真相を得て居るのだらうか、大日本史の記事の方が真相を得て居るだらうか。秀郷の後の千晴《ちはる》は、安和年中、橘《たちばなの》繁延《しげのぶ》僧|連茂《れんも》と廃立を謀《はか》るに坐して隠岐に流されたし、秀郷自身も前に何かの罪を犯してゐるし、時代の風気をも考へ合せて見ると、或は盛衰記の記事、竹堂の論の方が当つて居るかと思へる。然し確証の無いことを深刻に論ずるのは感心出来無いことだ、憚《はゞか》るべきことだ、田原藤太を強《し》ひて、何方《どちら》へ賭《か》けようかと考へた博奕《ばくち》打《うち》にするには当らない。
 将門に逐《お》ひ立てられた官人連は都へ上る、諸国よりは櫛《くし》の歯をひくが如く注進がある。京師では驚愕《きやうがく》と憂慮と、応変の処置の手配《てくばり》とに沸立《わきた》つた。東国では貞盛等は潜伏し、維幾は二十九日以来鎌輪に幽囚された。
 将門は旧恩ある太政大臣忠平へ書状を発した。其書は満腔《まんかう》の欝気《うつき》を伸《の》べ、思ふ存分のことを書いて居るが、静かに味はつて見ると、強い言の中に柔らかな情があり、穏やかに委曲《ゐきよく》を尽してゐる中に手強いところがあつて中※[#二の字点、1−2−22]面白い。
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将門|謹《つゝし》み言《まを》す。貴誨《きくわい》を蒙《かうむ》らずして、星霜多く改まる、渇望の至り、造次《ざうじ》に何《いか》でか言《まを》さん。伏して高察を賜はらば、恩幸なり恩幸なり。」然れば先年源[#(ノ)]護等の愁状に依りて将門を召さる。官符をかしこみ、※[#「蚣のつくり/心」、第3水準1−84−41]然《しようぜん》として道に上り、祗候《しこう》するの間、仰せ奉りて云はく、将門之事、既に恩沢に霑《うるほ》ひぬ。仍《よ》つて早く返し遣《や》る者なりとなれば、旧堵《きうと》に帰着し、兵事を忘却し、弓弦を綬《ゆる》くして安居しぬ。」然る間に前《さきの》下総国介平良兼、数千の兵を起し、将門を襲ひ攻む。将門背走相防ぐ能《あた》はざるの間、良兼の為に人物を殺損奪掠《さつそんだつりやく》せらるゝの由《よし》は、具《つぶ》さに下総国の解文《げもん》に注し、官に言上《ごんじやう》しぬ、爰《こゝ》に朝家諸国に勢《せい》を合して良兼等を追捕す可きの官符を下され了《をは》んぬ。而《しか》るに更に将門等を召すの使を給はる、然るに心安からざるに依りて、遂に道に上らず、官使英保純行に付いて、由を具《ぐ》して言上し了んぬ。未だ報裁を蒙《かうむ》らず、欝包《うつはう》の際、今年の夏、同じく平貞盛、将門を召すの官符を奉じて常陸国に到《いた》りぬ。仍《よ》つて国内|頻《しき》りに将門に牒述《てふじゆつ》す。件《くだん》の貞盛は、追捕を免れて跼蹐《きよくせき》として道に上れる者也、公家は須《すべか》らく捕へて其の由を糺《たゞ》さるべきに、而もかへつて理を得るの官符を給はるとは、是尤も矯飾《けうしよく》せらるゝ也。」又|右少弁《うせうべん》源相職朝臣《みなもとすけときのあそん》仰せの旨を引いて書状を送れり、詞に云はく、武蔵介経基の告状により、定めて将門を推問すべきの後符あり了んぬと。」詔使到来を待つの比《ころ》ほひ、常陸介《ひたちのすけ》藤原維幾|朝臣《あそん》の息男為憲、偏《ひとへ》に公威を仮りて、ただ寃枉《ゑんわう》を好む。爰《こゝ》に将門の従兵藤原玄明の愁訴により、将門其事を聞かんが為に彼国に発向せり。而るに為憲と貞盛等と心を同じうし、三千余の精兵を率ゐて、恣《ほしいまゝ》に兵庫の器仗戎具《きぢやうじゆうぐ》並びに楯《たて》等を出して戦を挑《いど》む。是《こゝ》に於て将門士卒を励まし意気を起し、為憲の軍兵を討伏せ了んぬ。時に州を領するの間滅亡する者其数|幾許《いくばく》なるを知らず、況《いは》んや存命の黎庶《れいしよ》は、尽《こと/″\》く将門の為に虜獲せらるゝ也。」介の維幾、息男為憲を教へずして、兵乱に及ばしめしの由《よし》は、伏して過状を弁じ了《をは》んぬ。将門本意にあらずと雖《いへど》も、一国を討滅しぬれば、罪科軽からず、百県に及ぶべし。之によりて朝議を候《うかゞ》ふの間、しばらく坂東の諸国を虜掠《りよりやく》し了んぬ。」伏して昭穆《せうぼく》を案ずるに、将門は已に栢原《かしはばら》帝王五代之孫なり、たとひ永く半国を領するとも、豈《あに》非運と謂《い》はんや。昔兵威を振《ふる》ひて天下を取る者は、皆史書に見るところ也。将門天の与ふるところ既《すで》に武芸に在り、等輩を思惟するに誰か将門に比《およ》ばんや。而るに公家褒賞の由|无《な》く、屡《しば/″\》譴責《けんせき》の符を下さるゝは、身を省みるに恥多し、面目何ぞ施さん。推して之を察したまはば、甚だ以て幸《さいはひ》なり。」抑《そも/\》将門少年の日、名簿を太政大殿に奉じ、数十年にして今に至りぬ。相国摂政《しやうこくせつしよう》の世に意《おも》はざりき此事を挙げんとは。歎念の至り、言ふに勝《た》ゆ可《べ》からず。将門傾国の謀《はかりごと》を萌《きざ》すと雖《いへども》、何ぞ旧主を忘れんや。貴閣且つ之を察するを賜はらば甚だ幸なり。一を以て万を貫《つらぬ》く。将門謹言。
   天慶二年十二月十五
      謹※[#二の字点、1−2−22]上 太政大殿少将閣賀恩下
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 此状で見ると将門が申訳《まをしわけ》の為に京に上つた後、郷に還《かへ》つておとなしくしてゐた様子は、「兵事を忘却し、弓弦を綬《ゆる》くして安居す」といふ語に明らかに見《あら》はれてゐる。そこを突然に良兼に襲はれて酷《ひど》い目に遇《あ》つたことも事実だ。で、其時に将門は正式の訴状を出して其事を告げたから、朝廷からは良兼を追捕すべきの符が下つたのだ。然《しか》るに将門は公《おほやけ》の手の廻るのを待たずに、良兼に復讐戦《ふくしゆうせん》を試みたのか、或は良兼は常陸国から正式に解文を出して弁解したため追捕の事が已《や》んだのを見て、勘忍《かんにん》ならずと常陸《ひたち》へ押寄せたのであつたらう。其時良兼が応じ戦は無いで筑波山《つくばさん》へ籠つたのは、丁度将門が前に良
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