書《げんかうしやくしよ》に見えてゐる。六道|能化《のうげ》の主を頼みて、父の苦患《くげん》を助け、身の悲哀を忘れ、要因によつて、却《かへ》つて勝道を成さんとしたのであると考へれば、まことに哀れの人である。信田《しのだ》の二郎|将国《まさくに》といふのは将門の子であると伝へられて、系図にも見えてゐるが、此の人の事が伝説的になつたのを足利期に語りものにしたのであらうか、まことにあはれな「信田《しのだ》」といふものがある。しかし直接に将門の子とはして無い、たゞ相馬殿の後としてある。そして二郎とは無くて小太郎とあるが、まことに古樸《こぼく》の味のあるもので、想ふに足利末期から徳川初期までの多くの人※[#二の字点、1−2−22]の涙をしぼつたものであらう。信田の三郎|先生《せんじやう》義広も常陸の信田に縁のある人ではあるが、それは又おのづから別で、将門の後の信田との関係はない。義広は源氏で、頼朝の伯父である。
 将門には余程京都でも驚きおびえたものと見える。将門死して二十一年の村上天皇天徳四年に、右大将藤原朝臣が奏して云はく、近日人※[#二の字点、1−2−22]故平将門の男《なん》の京に入ること
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