原氏どもに捕へられるほど間抜《まぬけ》でも弱虫でも無かつた。其中将門軍の多治経明等の手で、貞盛の妻と源扶の妻を吉田郡の蒜間江《ひるまえ》で捕へた。蒜間江は今の茨城郡の涸沼《ひぬ》である。
前には将門の妻が執《とら》へられ、今は貞盛の妻が執《とら》へられた。時計の針は十二時を指したかと思ふと六時を指すのだ。女等は衣類まで剥取《はぎと》られて、みじめな態《さま》になつたが、この事を聞いた将門は良兼とは異つた性格をあらはした。流浪《るらう》の女人を本属にかへすは法式の恒例であると、相馬小次郎は法律に通じ、思ひやりに富んで居た。衣|一襲《ひとかさね》を与へて放ち還《かへ》らしめ、且《か》つ一首の歌を詠じた。よそにても風のたよりに我ぞ問ふ枝離れたる花のやどりを、といふのである。貞盛の妻は恩を喜んで、よそにても花の匂《にほひ》の散り来れば吾が身わびしとおもほえぬかな、と返歌した。歌を詠《よ》みかけられて返しをせぬと、七生|唖《おし》にでもなるやうに思つてゐたらしい当時の人のことで此の返しはあつたのだらう。此歌此事を引掛けて、源護の家と将門との争闘の因縁《いんねん》にでもこじつけると、古い浄瑠璃作
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