つた》へられて居る。八箇国を一月ばかりに切従へられて、七|斛《こく》の芥子を一七日に焚いたなぞは、帯紐の緩《ゆる》み加減も随分|太甚《はなはだ》しい。
 相模から帰つた将門は、天慶三年の正月中旬、敵の残党が潜んでゐる虞《おそれ》のある常陸へと出馬して鎮圧に力《つと》めた。丁度都では此時参議|右衛門督《うゑもんのかみ》藤原忠文を征東大将軍として、東征せしむることになつた。忠文は当時唯一の将材だつたので、後に純友征伐にも此人が挙げられて居る。忠文は命を受けた時、方《まさ》に食事をしてゐたが、命を聞くと即時に箸《はし》を投じて起つて、節刀《せつたう》を受くるに及んで家に帰らずに発したといふ。生《なま》ぬるい人のみ多かつた当時には立派な人だつた。しかし戦ふに及ばぬ間に将門が亡びたので賞に及ばなかつたのを恨んで、拳《こぶし》を握つて爪が手の甲にとほり、怨言を発して小野宮《をののみや》大臣を詛《のろ》つたといふところなどは余り小さい。将門が常陸へ入ると那珂久慈《なかくじ》両郡の藤原氏どもは御馳走をして、へいこらへいこらをきめた。そこで貞盛為憲等の在処《ありか》を申せと責めたが、貞盛為憲等は此等の藤
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