書いて居る。盛衰記に書いてある通りならば、秀郷は随分|怪《け》しからぬ料簡方《れうけんかた》の男で、興世王の事を為《な》さずして終つたが、興世王の心を懐《いだ》いてゐた人だと思はれる。斎藤竹堂が論じた如く、秀郷の事跡を観《み》れば朝敵を対治したので立派であるが、其の心術を考へれば悪《にく》むべきところのあるものである。然し源平盛衰記の文を証にしたり、日本外史を引いて論じられては、是非も共に皆非であつて、田原藤太も迷惑だらう。吾妻鏡は「偽はりて称す云※[#二の字点、1−2−22]」と記し、大日本史は「秀郷陽に之に応じ、其の営に造《いた》りて謁を通ず」と記してゐる。此の意味で云へば、将門の勢《いきほひ》が浩大《かうだい》で、独力之を支ふることが出来無かつたから、下野掾の身ではあるが、尺蠖《せきくわく》の一時を屈して、差当つての難を免れ、後の便宜にもとの意で将門の許《もと》を訪《と》ふたといふのであるから、咎《とが》むべきでは無い。竹堂の論もむだ言である。が、盛衰記の記事が真相を得て居るのだらうか、大日本史の記事の方が真相を得て居るだらうか。秀郷の後の千晴《ちはる》は、安和年中、橘《たちばな
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