知らぬが、延喜十六年八月十二日に配流《はいる》されたとある。同時に罪を得たものは、同国人で同姓の兼有《かねあり》、高郷《たかさと》、興貞《おきさだ》等十八人とあるから、何か可なりの事件に本《もと》づいたに相違無い。日本紀略にも罪状は出て居らぬが、都まで通つた悪事でもあり、人数も多いから、いづれ党を組み力を戮《あは》せて為《し》た事だらう。何にしても前科者だ、一筋《ひとすぢ》で行く男では無い。将門を訪ふた談《はなし》は、時代ちがひの吾妻鏡《あづまかゞみ》の治承四年九月十九日の条に、昔話として出て居るので、「藤原秀郷、偽《いつ》はりて門客に列す可《べ》きの由《よし》を称し、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、梳《くし》けづるところの髪を肆《をは》らず、即ち烏帽子に引入れて之に謁《えつ》す。秀郷其の軽忽なるを見、誅罰《ちゆうばつ》す可《べ》きの趣《おもむき》を存じ退出し、本意の如く其首を獲たり云※[#二の字点、1−2−22]」といふので、源平盛衰記には、「将門と同意して朝家を傾け奉り、日本国を同心に知らんと思ひて、行向ひて角《かく》といふ」と巻二十二に書き出して、世に伝へたる髪の事、飯粒の事を
前へ
次へ
全97ページ中74ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング