あらう。高望王が上総介、六孫王が武蔵介、およそかゝる身分の人※[#二の字点、1−2−22]がかゝる官に任ぜられたのは当時の習《ならひ》であるから、興世王も蓋《けだ》し然様《さう》いふ人と考へて失当《しつたう》でもあるまい。其頃桓武天皇様の御子|万多《まんた》親王の御子の正躬《まさみ》王の御後には、住世《すみよ》、基世《もとよ》、助世、尚世《ひさよ》、などいふ方※[#二の字点、1−2−22]があり、又正躬王御弟には保世《やすよ》、継世《つぐよ》、家世など皆世の字のついた方が沢山《たくさん》あり、又桓武天皇様の御子仲野親王の御子にも茂世、輔世《すけよ》、季世《すゑよ》など世のついた方※[#二の字点、1−2−22]が沢山に御在《おいで》であるところから推《お》して考へると、興世王は或は前掲二親王の中のいづれかの後であつたかとも思へるが、系譜で見出さぬ以上は妄測《まうそく》は力が無い。たゞ時代が丁度相応するので或はと思ふのである。日本外史や日本史で見ると、いきなり「兇険にして乱を好む」とあつて、何となく熊坂|長範《ちやうはん》か何ぞのやうに思へるが、何様《どう》いふものであらうか。扨《さて》此
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