維幾《これちか》の手から将門に渡した。将門は符を得ても命を奉じ無かつた。維幾は貞盛の叔母婿《をばむこ》であつた。
貞盛が京上りをした翌天慶二年の事である。武蔵の国にも紛擾《ふんぜう》が生じた。これも当時の地方に於て綱紀の漸《やうや》く弛《ゆる》んだことを証拠立てるものであるが、それは武蔵権守興世王と、武蔵介経基と、足立郡司判官武芝とが葛藤《かつとう》を結んで解けぬことであつた。武芝は武蔵国造《むさしのくにのみやつこ》の後で、足立《あだち》埼玉《さいたま》二郡は国中で早く開けたところであり、それから漸く人烟《じんえん》多くなつて、奥羽への官道の多摩《たま》郡中の今の府中のあるところに庁が出来たのであるが、武芝は旧家であつて、累代の恩威を積んでゐたから、当時中※[#二の字点、1−2−22]勢力のあつたものであらう、そこへ新《あらた》に権守《ごんのかみ》になつた興世王と新に介《すけ》になつた経基とが来た。経基は清和源氏の祖で六孫王其人である。興世王とは如何なる人であるか、古より誰も余り言はぬが、既に王といはれて居り、又経基との地位の関係から考へて見ても、帝系に出でゝ二代目位か三代目位の人で
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