「かはわた」と訓《よ》んだのであらう、今の川又村の地で当時は川の東岸であつたらしい。一水を渡れば豊田郡で将門領である。貞盛が此時加担して居なかつたのであるのは注意すべきだ。将門の方でも、其義ならば伯父とは云へ一[#(ト)]塩つけてやれと云ふので出動した。時は其年の十月廿一日であつた。将門の軍は勝を得て、良正は散※[#二の字点、1−2−22]に打《うち》なされて退いた。此も私闘である。将門はまだ謀反はして居らぬ、勝つて本郷へ帰つた。
「負け碁《ご》は兎角あとをひく也」で、良正は独力の及ぶ可からざるを以て下総介良兼(或はいふ上総介)に助勢を頼んで将門に憂き目を見せようとした。良兼は護の縁につながつて居る者の中の長者であつた。良兼の妻も内から牝鶏《めんどり》のすゝめを試みた。雄鶏は終《つひ》に閧《とき》の声をつくつた。同六年六月二十六日、十二分に準備したる良兼は上総下総の兵を発して、上総の地で下総へ斗入《とにふ》してゐる武射《むさ》郡の径路から下総の香取郡の神崎《かうざき》へ押出した。神崎は滑川より下、佐原より上の利根川沿岸の地だ。それより大河を渡つて常陸の信太郡の江前の津へかゝつた。江前は
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