るか、次の伯父の良兼が将門等の家の事をきりもりしたことは自然の成行であつたらう。後に至つて将門が国香や良兼と仲好くないやうになつた原因は、蓋し此時の国香良兼等が伯父さん風を吹かせ過ぎたことや、将門等の幼少なのに乗じて私《わたくし》をしたことに本づくと想像しても余り間違ふまい。さて将門が漸《やうや》く加冠するやうになつてから京上りをして、太政大臣藤原忠平に仕へた。これは将門自分の意に出たか、それとも伯父等の指揮に出たか不明であるが、何にせよ遙※[#二の字点、1−2−22]と下総から都へ出て、都の手振りを学び、文武の道を修め、出世の手蔓《てづる》を得ようとしたことは明らかである。勿論将門のみでは無い、此頃の地方の名族の若者等は因縁によつて都の貴族に身を寄せ、そして世間をも見、要路の人※[#二の字点、1−2−22]に技倆骨柄《ぎりやうこつがら》を認めて貰ひ、自然と任官叙位の下地にした事は通例であつたと見える。現に国香の子の常平太貞盛もまた都上りをして、何人の奏薦によつたか、微官ではあるが左馬允《さまのすけ》となつてゐたのである。今日で云へば田舎の豪家の若者が従兄弟《いとこ》同士二人、共に大学
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