将門を詛《のろ》ひ、明達が四天王法で将門を調伏し、其他神社仏寺で祈立て責立てゝ、とう/\祈り伏せたといふ事になつてゐる。かういふ時代であるから、下では石清水八幡《いはしみづはちまん》の本宮の徒と山科《やましな》の八幡新宮の徒と大喧嘩をしたり、東西両京で陰陽の具までを刻絵《きざみゑ》した男女の神像を供養礼拝して、岐神(さいの神、今の道陸神《だうろくじん》ならん)と云つて騒いだり、下らない事をしてゐる。先祖ぼめ、故郷ぼめの心理で、今までの多くの人は平安朝文明は大層立派なもののやうに言做《いひな》してゐる者も多いことであるが、少し料簡《れうけん》のある者から睨《にら》んだら、平安朝は少くも政権を朝廷より幕府へ、公卿より武士へ推移せしむるに適した準備を、気長に根深く叮嚀に順序的に執行して居たのである。かういふ時代に将門も純友も生長したのである。純友が賊衆追捕に従事して、そして盗魁《たうくわい》となつたのも、盗賊になつた方が京官になるよりも、有理であり、真面目な生活であると思つたところより、乱暴をはじめて、後に従五位下を以て招安されたにもかゝはらず、猶《な》ほ伊予、讃岐、周防、土佐、筑前と南海、
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