かうつけ》に群盗が起り、延喜元年には阪東諸国に盗起り、其三年には前安芸守《さきのあきのかみ》伴忠行は盗の為に殺され、其前後|博奕《ばくち》大に行はれて、五年には逮捕をせねばならぬやうになり、其冬十月には盗賊が飛騨守《ひだのかみ》の藤原|辰忠《ときたゞ》を殺し、六年には鈴鹿山に群盗あり、十五年には上野介《かうづけのすけ》藤原厚載も盗に殺され、十七年には朝に菊宴が開かれたが、世には群盗が充ち、十九年には前《さき》の武蔵の権介《ごんのすけ》源任《みなもとのたふ》が府舎を焼き官物を掠《かす》め、現任の武蔵守高向利春を襲つたりなんどするといふ有様であつた。幸に天皇様の御聖徳の深厚なのによつて、大なることには至らなかつたが、盗といふのは皆|一揆《いつき》や騒擾《さうぜう》の気味合の徒で、たゞの物取りといふのとは少し違ふのである。此様な不祥のある度に威を張るのは僧侶|巫覡《ふげき》で、扶桑略記《ふさうりやくき》だの、日本紀略だの、本朝世紀などを見れば、厭《いと》はしいほど現世利益を祈る祈祷が繰返されて、何程|厭《いと》はしい宗教状態であるかと思はせられる。既に将門の乱が起つた時でも、浄蔵が大威徳法で
前へ 次へ
全97ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング