攻立てたら、或は良兼等を酷《ひど》いめにあはせ得たかも知らぬが、将門の性質の美の窺《うかゞひ》知らるゝところはここにあつて、妻の故を以て伯父を殺したと云はるゝを欲せぬために一方をゆるして其の逃ぐるに任《まか》せた。良兼等は危い生命を助かつて、辛《から》くも遁《のが》れ去つてしまつた。そこで将門は明かな勝利を得て、府の日記へ、下総介が無道に押寄せて合戦しかけた事と、これを追退けてしまつたことをば明白に記録して置いて、悠然と自領へ引取つた。火事は大分燃広がつた、私闘は余国までの騒ぎになつたが、しかもまだ私闘である、謀反《むほん》をしたのでは無かつた。これだけの大事になつたのであるから、四方隣国も皆手出しこそせざれ、目を側《そば》だてゝ注意したに相違ない。将門が国庁の記録に事実をとゞめ、四方に実際を知らしめたのは、為し得て男らしく立派に智慮もあり威勢もあることであつた。
 源護の方は事を起した最初より一度も好い目を見無かつた。痴者《ちしや》が衣服の焼け穴をいぢるやうに、猿が疵口《きずくち》を気にするやうに、段※[#二の字点、1−2−22]と悪いところを大きくして、散※[#二の字点、1−2−22]な事になつたが、いやに賢く狡滑《かうくわつ》なものは、自分の生命を抛出《なげだ》して闘ふといふことをせずに、いつも他の勢力や威力や道理らしいことやを味方にして敵を窘《くるし》めることに長《た》けたものだ。何様《どう》いふ告訴状を上《たてまつ》つたか知らぬが、多分自分が前の常陸大掾であつたことと、現常陸大掾であつた国香の死したことを利用して、将門が暴威に募り乱逆を敢《あへ》てしたことを申立てたに相違無く、そしてそれから後世の史をして将門常陸大掾国香を殺すと書かしめるに至らせたのであらう。去年十二月二十九日の符が、今年九月になつて、左近衛番長の正六位上|英保純行《あぼのすみゆき》、英保氏立、宇自加|支興《もちおき》等によつて齎《もた》らされ、下毛下総常陸等の諸国に朝命が示され、原告源護、被告将門、および国香の麾下《きか》の佗田真樹を召寄せらるゝ事になつた、そこで将門は其年十月十七日、急に上京して公庭に立つた。一部始終を申立てた。阪東訛《ばんどうなま》りの雑つた蛮音《ばんおん》で、三戦連勝の勢に乗じ、がん/\と遣付《やりつけ》たことであらう。もとより事実を陰蔽して白粉を傅《つ》けた談をするが如きことは敢《あへ》てし無かつたらう。箭《や》が来たから箭を酬《むく》いた、刀が加へられたから刀を加へた、弓箭《ゆみや》取る身の是非に及ばず合戦仕つて幸《さいはひ》に斬り勝ち申したでござる、と言つたに過ぎまい。勿論|私《わたくし》に兵仗《へいぢやう》を動かした責罰|譴誨《けんくわい》は受けたに相違あるまいが、事情が分明して見れば、重罪に問ふには足《た》ら無いことが認められたのに、かてゝ加へて皇室御慶事があつたので、何等罪せらるゝに至らず、承平七年四月七日一件落着して恩詔を拝した。検非違使《けびゐし》庁《ちやう》の推問に遇《あ》うて、そして将門の男らしいことや、勇威を振つたことは、却《かへ》つて都の評判となつて同情を得たことと見える。然し干戈《かんくわ》を動かしたことは、深く公より譴責《けんせき》されたに疑無い。で、同年五月十一日に京を辞して下総に帰つた。
 とは記に載つてゐるところだが、これは疑はしい。こゝに事実の前後錯誤と年月の間違があるらしい。将門は幾度も符を以て召喚されたが、最初一度は上洛し、後は上洛せずに、英保純行に委曲《ゐきよく》を告げたのである。将門はそれで宜《よ》いが、良兼等は其儘《そのまゝ》指を啣《くは》へて終ふ訳には、これも阪東武者の腹の虫が承知しない。甥《おひ》の小僧つ子に塩をつけられて、国香亡き後は一族の長者たる良兼ともある者が屈してしまふことは出来ない。護も貞盛も女達も瞋恚《しんい》の火を燃《もや》さない訳は無い。将門が都から帰つて来て流石《さすが》に謹慎して居る状《さま》を見るに及んで、怨を晴らし恥辱を雪《そゝ》ぐは此時と、良兼等は亦復《また/\》押寄せた。其年八月六日に下総境の例の小貝川の渡に良兼の軍は来た。今度は良兼もをかしな智慧《ちゑ》を出して、将門の父良将祖父高望王の像を陣頭に持出して、さあ箭《や》が放せるなら放して見よ、鉾先《ほこさき》が向けらるゝなら向けて見よと、取つて蒐《かゝ》つた。籠城でもした末に百計尽き力乏しくなつてならばいざ知らず、随分いやな事をしたものだが、如何《いか》に将門勇猛なりとも此には閉口した。「親の位牌《ゐはい》で頭こつつり」といふ演劇には、大概な暴れ者も恐れ入る格で、根が無茶苦茶な男では無い将門は神妙におとなしくして居た。おとなしくした方が何程腹の中は強いか知れないのだが、差当つて手が出せぬのを見ると、
前へ 次へ
全25ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング